2018年4月30日月曜日

「わかりやすい」「懇切丁寧」への疑問

最近ふと気付いたこと。
子どもの将来を考えた指導や手助け、授業の在り方について。

例えば、家で丁寧に勉強を見てあげるとする。
子どもがテキストを読んでわからないところを解説する。
子どもは「わかった!」と言って、嬉々として「正解」を書き込む。
それ自体はいい。
しかし、それから先、ずっとそれができるか、ということである。

中学生になっても、教えてあげられるか。
高校生になっても、教えてあげられるか。
大学生になったら
社会人なったら。

多くのお母さん方から出るのが
「最近、算数が難しくて教えられなくなって」
という声である。
5年生ぐらいから特に多い。
複雑になってくるし、まして入試を考えている場合、妙にひねった問題が多く、当然である。

どこかで、手放さないといけない。
どうせいつか手放すならば、可能な限り、早い時期の方がよい。
(だからといって、教えられなくなったからすぐ「塾」という他人の手に委ねる発想もまた違う。
塾は、もっともっと勉強したい子どものレベルアップのために活用する機関である。
決して保育所ではない。)

学校における教育全般でもこれはいえる。
わかりやすい授業自体はいい。
懇切丁寧に教えてあげるのもいい。
友だちがわかりやすく教えてくれることもいい。

しかしである。
この先もずっとわかりやすい授業や、親切に教えてくれる人が待っているとは限らない。
大切なのは、「本人の自力がついたかどうか」という点である。

「わからないから、やらない」で逃げるようでは、一番困る。
「わからないからこそ、わかるようになるまでやる。」のである。
それが現実社会での生き方、働き方である。

現実に待っている各種テストでは、原則「独力」である。
テスト中に親切に教えてくれる友だちはいない。
辛くても面倒でも自力で戦い抜ける能力を、何が何でもつけさせねばならない。

叱られない世界が将来待っているなら、叱る必要はない。
ほめられまくる世界が将来待っているなら、ほめまくってあげればいい。
練習がそのまま生きる。
ただし、その先に練習と逆の現実が待っているなら、悲劇である。
(大学入試で計測される能力と、一般社会に必要な能力の違いこそが、それである。
だから、大学入試改革が必要なのである。)

その先に、どんな世界があるのか。
それを見据えた上で、現状目の前の子どもに何をしてあげるべきか、考えるようにしたい。

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