今日はエッセイ。
(一月前のメルマガ記事からの転載なので、季節外れであることはご容赦願いたい。)
関東は、お花見シーズンのピークである。
桜の花を眺めていると、不思議と心がわくわくしてくる。
別に何がある訳じゃないのに、不思議なことである。
花を見て、心が満たされるというのが大切である。
花を見ても何も感じない、ましてお花見で怒っているとかだと、無意味、あるいは害悪ですらある。
要は、心持ちである。
余裕がないと、何もいいと思えない。
余裕があると、何でもいいと思える。
この心持ちというのは、自分でしか決められない。
幸せや穏やか、平安は、意識的な選択である。
無意識に任せていては、不幸や不満、不安、怒りに流される。
本能は、生存すること自体を第一義に考えるため、不安や恐れのある状態の方が、生き延びやすいという。
(大自然の中で何の恐怖心も警戒心ももたずにうろついてたら、他の生物に食い殺される可能性が高い。)
だから、意識を放っておくと、人間は自然とネガティブを選択することになる。
無意識状態は、ネガティブなのである。
わかりやすく、身近なSNSを使用する場合を例にする。
桜並木でも何でもいいのだが、美しい風景をSNS上にアップしようとするとする。
満たされた心で「この素晴らしい景色をあの人にも見せてあげたい」と思うか。
欠けた心で「私のリア充生活」をアピールしたいがために行うのか。
まずこの発信の時点で心持ちが分かれる。
次に、受け手である。
満たされた心で「何て美しい風景だろう。シェアしてくれてありがとう。」と純粋に思うか。
欠けた心で「羨ましい。それに比べて私なんて・・・こんな自慢して腹立たしい。」と受け取るか。
この辺りが、SNSの難しさを作っている。
純粋な心で行っても相手にマイナスに受け取られたら「そんなつもりじゃなかった」となる。
そもそも傲慢な心持ちで発信した場合、確実にマイナスに受け取られる。
自分の心持ちまでは決められるが、受け手の心持ちは決められないのである。
見た相手を無駄に嫌な気持ちにさせる可能性があるなら、そこのリスクは敢えて負わないという選択肢もある。
要は、花を見るにしても、極論自分の中だけで満たされれば良いのである。
外向けにアピールする必要はない。
外に意識が向きすぎるから、自信がなくなり、自身がなくなる。
子どもにもいえる。
本物の自信のある子どもは、落ち着いていて、公平で優しい。
他で決まる「自信」、何かができることで価値を決めている子どもは、自慢や他人の卑下、いじめという形で現れる。
大人でも同じである。
すごいことをしているのに、常に淡々としている人がいる。
自分の中に、本物の自身がある人である。
逆に、妙に偉ぶっている人や高圧的な人、仕切りたがりや支配的な人は、自信がなくて不安なのだと考えて間違いない。
桜は、誰もいない山奥でも咲く。
褒められることを求めていない。
評価を求めていないからこそ、純粋な美しさがある。
評価を求めない美しいものにこそ、高い評価がついて引きつけられる。
厳しい寒さに耐えるほどに、美しい花をつける。
そして、散り際も潔い。
桜は「美しさ」という教科の最高の先生である。
2018年5月2日水曜日
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