保護者と担任が、互いをリスペクトすることについて。
ここに関しては、担任の側から先にはたらきかけることが大切である。
上っ面ではいけない。
心から思うことが大切。
それには、やはり知識が前提になる。
「自分が知らないことを相手は知っている」という、「無知の知」である。
担任が知らなくて、保護者が知っていること。
その最たるものは、子どもそのもののことである。
担任は、「学級」という集団単位での知識に関しては長けている。
しかし、「〇〇さん」という個人に関していえば、到底その親に及ぶはずがない。
接している時間が桁違いである。
また、これから接していく時間も、桁違いである。
担任は一年、ないし長くて二、三年のほんの一時期しか一緒にいられないが、保護者は一生の付き合いである。
覚悟が違う。
だから、教育の方針は、保護者優先である。
こちらの教育方針を示しつつも、個人に関しては、可能な限り家庭の側に寄せる。
(ここに関しては、拙著『切り返しの技術』にも詳しく書いた。)
最もわかりやすい例を挙げれば、宗教。
「豚肉を食べない」という宗教をもつ家庭の子どもに対し、豚肉の入った給食を食べさせる学校はない。
そこに合わせるのが当然である。
一方で、「だから豚肉は全校の給食に一切出さない」とはならない。
それは、全体の利益を損なう。
「豚肉を食べさせたい」という家庭の方針を排することにもなる。
だから、あくまで、個人への個別対応である。
アレルギー対応と同じである。
それが全体の方針を示しつつ、個人に寄せるということである。
あくまで、各家庭の教育方針を尊重する。
ここまでその子どもを育ててきたという事実に尊敬の念を抱く。
実際、自分で一人の子どもを育てるとなると、相当な困難が予想される。
そこに関してリスペクトの気持ちをもつということである。
大体、私は家に関する大部分をパートナーに任せて仕事に思い切り打ち込ませていただいている以上、家庭の子育てに関してあまりどうこういえない。
休日にいい顔して、子どもが寄ってきて、「いいとこどり」していると思われても、仕方がないと思っている。
母親としての生みの苦しみも一生知れないし、母親なりの本当の苦労、心労も、喜びもわからないと思う。
どの家庭にも、その家庭なりのストーリーがある。
苦労も喜びも、千差万別である。
つまり、それぞれの保護者は、確実に「私の知らない世界を知っている」のである。
子育てに関しての知識自体なら、インターネット上に溢れている。
だから、「こうすればこうなりますよ」と言うこと自体はできる。
しかし、所詮、一般論である。
10人中1人当てはまれば、当たっている方ではないかと思う。
(以前、「幼児にも割れる食器を使いましょう」という記事でも書いた。
「食事の度に毎度割られてたまるか」というのが我が家の本音である。)
今の時代は、玉石混淆、様々な情報が無料で手に入る。
親の側が学校教育に関する「知識」を得られる機会が無限にある。
教師の側にも、家庭教育に関する「知識」を得られる機会が無限にある。
そして巷に溢れる情報は
「こういう風に育てればこうなる。」
「こういう子どもになるのはこういう育て方だから」
というものが大半である。
それが成立しないことは、当事者にしかわからない。
「我が子が言うことをきかないのはしつけが悪いから」
「落ち着きがなく乱暴なのはしつけのせい」
ということになる。
そんなはずがない。
同じように育てていても、「種(たね)」が違うのだから、同じものが咲くはずがない。
向日葵の種を薔薇だと思って育ててもうまくいくはずがない。
同じ花からとれた二種類の種でも、同じように育つはずがない。
みんな、そここそが「個性的」なのである。
「個性を生かす」というが、「個性は生きる」というのが持論である。
同じような条件下で育てていても、違いが出てくるのが個性。
むしろどんなに潰そうとしても、潰れないのが個性。
ルールは一律・一定にしている上で、なお違う結果が出てくるというのが個性という実感である。
兄弟を育てれば、なおよく実感としてわかることである。
そんな「個性的」な子どもを、悲喜こもごも、保護者はここまで育ててきたのである。
宝物を、預けてくださるのである。
そこへの感謝なくして、学級担任の仕事は有り得ない。
学級には、色々な子どもたちがいる。
どの学級でも、担任は、大変な思いをするだろう。
しかしそれは、保護者も大変な思いをしているのである。
結論、保護者は、担任と苦労を共にする仲間である。
担任は保護者へのリスペクトの気持ちをもって事に当たりたい。
2018年5月23日水曜日
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