学級懇談会があった週に書いた記事。
次の本から引用する。
『最高の学級づくり パーフェクトガイド 指導力のある教師が知っていること』
赤坂 真二 著 明治図書
https://www.amazon.co.jp/dp/4181695158
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(引用開始)
先ほども言いましたが、学級崩壊前の子どもたちは、学校に来ると児童・生徒になりました。
役割にはルールが伴います。
したがって、児童・生徒としての行動は、学校が、子どもたちに与えたルールであるとも言えます。
皆さんも、素の自分と教師である自分は、異なっていると思います。
(引用終了)
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端的に言って、学級崩壊という言葉が登場する前の時代では、児童・生徒という立場のルールが成立していたといえる。
素の自分はどんなにやんちゃであっても、児童・生徒としての振る舞い方があったということである。
一昔前は、親が「先生の言うことをききなさい」で子どもを送り出してくれたことは何度も述べた。
つまりそこには一つのルール、前提があった訳である。
「児童生徒は先生の言うことをきくもの」
という前提である。
(「親と先生はおっかない」という前提でもある。)
今の時代、この前提があると思って指導をすると、当然破綻する。
捉えている前提が間違っているからである。
時代が違えば指導法が変わるのは当然である。
では、なぜこうなっていったのか。
一言で言うと、教師に対する「尊敬」の念が失われたことにある。
尊敬の念は、相手に対して「すごい」と認める時に発生する。
例えば、子どもが教師に対する「尊敬」の念を抱く瞬間の一つは、授業中である。
知的好奇心を刺激する授業。
できずにくじけそうになるところを励まし、導くような授業。
「授業がおもしろい!」と感じ続けることで、少しずつ築かれていく。
教師の仕事の本質は、学力形成。
すなわち授業。
つまりは、尊敬のポイントの一つが「知的権威」である。
親に対してもこれはいえる。
親から見て、「知的権威」があるという状態が望ましい。
平たく言うと「私は知らないが、相手は知っている」という状態である。
学問は先生任せ、という時代ならこれは成立する。
しかし今の時代、学問に関しては、親の側も知識が豊富である。
学問の話だけだと、分が悪いことも多い。
「教育」という大きな分類で考えると、家庭教育も子育ても学校教育も含まれる。
だから、教育全般で語ろうとすると、分が悪い。
情報化社会の今、インターネットを検索すれば、いくらでも「情報」や「知識」は手に入る。
「子どもは褒めて伸ばすものです。」「怒らない方がいいですよ」
などとしたり顔で言われても、情報も知識も経験もある親からすれば「そんなことはわかってる」と思われるのがオチである。
担任側に分があるとしたら「学級担任としての経験」だけである。
時に傷つきながらも、子ども集団と共に前進してきた経験がある。
うまくいったことも、うまくいかなかったこともある。
そういった経験は、インターネット上の情報とは全く質が違う。
そこにだけは、プライドをもってよい。
「知的権威」を確立できるポイントがあるとしたら、そこである。
机上の空論でなく、事実で語る。
その経験と知識は、同職の親でない限り、絶対にもっていない。
確実に「一日の長」がある。
親に対しての知的権威が確立した時、その真の受益者は子どもである。
「先生の言うことをききなさい」ということになり、児童・生徒の立場というルールが成立し始める。
役割とルールを自覚した上で生活できれば、安定し、力もつく。
至極単純な話である。
ところで、初任者はどうすればいいのか。
これは、「知らないことも多い」という前提で、それでもプロとして努力していくという姿勢を伝えるしかない。
経験がない内に大きな話はできない。
できないなりに謙虚に学ぼうという姿勢が伝われば、大抵の人は温かく見守ってくれるものである。
心ある親なら「先生の言うことをききなさい」ということになる。(はずである。)
ただし、これだけでは、足りない。
教師の側だけが「尊敬」を得ようとしても、ダメである。
ここから互いの「リスペクト」に至るには、互いを認める必要がある。
つまり、教師の側から、親の側への尊敬の念である。
むしろ、「主体変容」ということを考えた時、こちらの方が先になる。
ここについては、長くなったので次号。
2018年5月21日月曜日
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