何年やっても、叱るという行為は難しい。
なぜなのか考えてみた。
まず叱るという行為は、「落としどころ」がない。
その場では、「次は気を付けて」と伝えるものの、結果は出ない。
叱ったら、改善を見届けて、更にフィードバックする必要がある。
大変に手間である。
しかも、改善されないことの方が多い。
手間な上に、能率も気分も悪いことこの上ない。
最悪の場合、「逆恨み」という形で返ってくる。
世の中に「叱らない」理論が広く受け容れられる所以である。
「とにかく褒める」が人気を博す所以である。
その点、社会は、楽というか、すっきりしている面がある。
なぜかというと、ルール違反が見つかっても、一切叱られない。
その代わり、容赦なく罰を受ける。
そこに選択肢や感情の入る隙はない。
警察官と違反者の間に、信頼ベースの人間関係はないからである。
スピード違反や駐車違反で捕まったら、減点されたり、罰金を払ったりするだけである。
警察官は基本的に、説教をしたり叱ったりはしてくれない。
淡々と、粛々と手続きが進められる。
それでも言うことをきかなければ、次は「裁判所」のお世話になるだけである。
それが「法治国家」の本来あるべき姿である。
「ゼロトレランス」という教育方針がある。
ウィキペディアによれば、
「 zero」「tolerance(寛容)」の文字通り、
「不寛容を是とし細部まで罰則を定めそれに違反した場合は厳密に処分を行う方式」
とある。
これはこれで、意義のある方針だとは思う。
特に、どうしようもなく荒れた状態に対しては、てきめんに効果がある。
荒れ果てた状態には、信頼関係が成立せず、情緒の入る隙間がないからである。
しかしである。
小学校にこれを取り入れられるかというと、かなり心配がある。
まして、まだあらゆるルールへの理解が乏しい低学年には無理である。
私が教育実習生時代に教わったことの一つに
「叱るのは、関係性ができてから」
というものがある。
何事も「誰が言ったか」「どういう文脈で言ったか」が大切である。
先の例だと、警察官が、法に基づいて言うから聞くのである。
一般の人が言っても、効力を発揮しない。
違反の取り締まりという行為は、信頼関係ではなく、一つの社会契約の上に成り立っているのである。
担任が叱ったことが通じるとしたら、そういう関係性だからである。
ここには明確な法律はなく、あるのは人間関係だけである。
普段から「先生の言うことをききなさい」と言われている子どもならいい。
一昔前は、そうだったのかもしれない。
しかし今の時代、大部分は、そうでないと考えるのが妥当である。
つまり、関係性が浅い内は、叱ることがマイナスに働きやすい。
自分がやられて嫌なことは、伝えていい。
その場合の主語は「私」である。
しかし、「叱る」という行為では、「あなた」が主語になる。
叱っているのは「私」だが、その行為のねらいは「あなた」の行動改善である。
つまり、相互の信頼関係がベースになる。
(だから、電車の中でのマナーが悪い人に説教をするというのは、大変に難しい。)
学級では、「叱る」という行為が成立する関係を目指す。
「愛があるから叱るのだ」という言葉も、相互に愛が感じられる素地があってこそである。
叱られることを当然と思って「受容」し、「感謝」する関係性まで高めていく。
文字にするのは簡単だが、成立するには時間もかかり、相当に難しいことである。
これは、職員間でも言える。
信頼関係のある間柄だと、叱られた後に反省し、自然と感謝の念が湧く。
一方、信頼関係がないと、恨み節や無視という形で現れる。
新しい子どもたちとの関係。
新しい同僚との関係。
どちらも、まずは信頼関係の構築から。
互いを知ることからである。
叱るのは、その後で十分間に合う。
子どもに対しても、同僚や管理職に対しても、やがては叱る、叱られるが成立する関係を目指したい。
2018年5月12日土曜日
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