知り合いの先生が紹介してくれた、次の本の「9月13日」から引用する。
『毎日読みたい365日の広告コピー』 ライツ社
http://wrl.co.jp/2017/11/21/365adcopy/
================
(引用開始)
問題は、問題意識がないことでした。
【迷惑駐輪啓発 札幌市】フライヤー 2011年
(引用終了)
================
私の勤務する千葉大学のある西千葉駅周辺でも、迷惑駐輪がかなりある。
自転車を多用する学生街ならではともいえる。
しかし、自分が学生だった頃を振り返ると、正直、えらそうに説教できない。
なぜなのか。
問題意識がなかったからである。
「そこに停めると、たくさんの人が通るから迷惑」
「車いすの人が通れない」
「目の不自由な人がぶつかるかも」
という意識自体が足りなかった。
そこへの意識が、不十分だったと言わざるを得ない。
学生時代は、他のことで頭がいっぱいである。
さらに、指導的立場にある訳ではないので、周りに見られている意識も低かった。
一方、教育実習を経た3年生以降だと、急にそこの意識が高まる。
要は、「見られている」という意識が、問題意識を高める。
人は、「見られている」という意識がないと、あらゆる問題行動を無意識に行う傾向がある。
(だから、親や教師は、子どものマナーに関して少し口うるさいぐらいでちょうどよい。)
そして大抵、無意識に行うのは、本当の自分と社会にとって望ましくない方の行動である。
良い習慣とは、「大変な方」を意識的に連続して選択し続けた結果である。
日本人に古来からある「お天道様が見ている」という意識は、ここに大きく寄与する。
お天道様に恥じるような行為は、人生における恥であり、その罰を恐れる気持ちにもつながる。
ある意味で、「他律的自律」である。
お天道様でも自分の中の「じぶん」でもいいが、とにかく外、あるいは内から「何か」が常に自分を見ている。
誰も見ていなくとも、神様なり理想の「じぶん」という他が、今の自分を律している状態が理想である。
しかしである。
問題意識がない以上、その意識すら働かない。
問題意識をもてること自体が、問題解決になるともいえる。
要は、日常からの気付きである。
気付くか、気付かないか。
ここに全てがかかっている。
だから、私は毎年、学級の子どもには常に日誌を書かせている。
日々の「気付き」が書ける子どもは、確実に伸びるという信念をもっている。
そして、自分も日誌を書いている。
問題意識が明確になるからである。
学級経営についても同様。
気付こうとすれば、改善点が見つかる。
「何も問題ない」と思っている時が一番危ない。
4月からそんな脳天気な人は少ないと思うかもしれない。
しかし、実は4月に気付いて対策をとらないが故、5月以降の荒れに繋がっている。
問題意識をもつこと。
気付こうとすること。
それには、日常がすべてである。
乱れがある状態では、見つからない。
放置自転車のある風景が日常になると、気付かない。
整理整頓がされていない環境では、乱れに気付けない。
普段からあらゆる小さな乱れに慣れていると、それがやがて大きな乱れになっても、「普通」になってしまう。
日常がすべて。
問題に気付くためにも、身の回りの小さな乱れから整えていくようにしたい。
2018年5月25日金曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿