2018年5月25日金曜日

問題意識がないのが、問題

知り合いの先生が紹介してくれた、次の本の「9月13日」から引用する。

『毎日読みたい365日の広告コピー』 ライツ社
http://wrl.co.jp/2017/11/21/365adcopy/

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(引用開始)

問題は、問題意識がないことでした。

【迷惑駐輪啓発 札幌市】フライヤー 2011年
(引用終了)
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私の勤務する千葉大学のある西千葉駅周辺でも、迷惑駐輪がかなりある。
自転車を多用する学生街ならではともいえる。
しかし、自分が学生だった頃を振り返ると、正直、えらそうに説教できない。

なぜなのか。

問題意識がなかったからである。
「そこに停めると、たくさんの人が通るから迷惑」
「車いすの人が通れない」
「目の不自由な人がぶつかるかも」
という意識自体が足りなかった。
そこへの意識が、不十分だったと言わざるを得ない。

学生時代は、他のことで頭がいっぱいである。
さらに、指導的立場にある訳ではないので、周りに見られている意識も低かった。

一方、教育実習を経た3年生以降だと、急にそこの意識が高まる。

要は、「見られている」という意識が、問題意識を高める。
人は、「見られている」という意識がないと、あらゆる問題行動を無意識に行う傾向がある。
(だから、親や教師は、子どものマナーに関して少し口うるさいぐらいでちょうどよい。)

そして大抵、無意識に行うのは、本当の自分と社会にとって望ましくない方の行動である。
良い習慣とは、「大変な方」を意識的に連続して選択し続けた結果である。

日本人に古来からある「お天道様が見ている」という意識は、ここに大きく寄与する。
お天道様に恥じるような行為は、人生における恥であり、その罰を恐れる気持ちにもつながる。
ある意味で、「他律的自律」である。

お天道様でも自分の中の「じぶん」でもいいが、とにかく外、あるいは内から「何か」が常に自分を見ている。
誰も見ていなくとも、神様なり理想の「じぶん」という他が、今の自分を律している状態が理想である。

しかしである。

問題意識がない以上、その意識すら働かない。
問題意識をもてること自体が、問題解決になるともいえる。

要は、日常からの気付きである。
気付くか、気付かないか。
ここに全てがかかっている。

だから、私は毎年、学級の子どもには常に日誌を書かせている。
日々の「気付き」が書ける子どもは、確実に伸びるという信念をもっている。
そして、自分も日誌を書いている。
問題意識が明確になるからである。

学級経営についても同様。
気付こうとすれば、改善点が見つかる。
「何も問題ない」と思っている時が一番危ない。

4月からそんな脳天気な人は少ないと思うかもしれない。
しかし、実は4月に気付いて対策をとらないが故、5月以降の荒れに繋がっている。

問題意識をもつこと。
気付こうとすること。

それには、日常がすべてである。
乱れがある状態では、見つからない。
放置自転車のある風景が日常になると、気付かない。
整理整頓がされていない環境では、乱れに気付けない。
普段からあらゆる小さな乱れに慣れていると、それがやがて大きな乱れになっても、「普通」になってしまう。

日常がすべて。
問題に気付くためにも、身の回りの小さな乱れから整えていくようにしたい。

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