担任が学級のルールを守らせることについて。
私の尊敬するある先生から、メルマガを読んでのご意見をいただいた。
ご本人の許可をいただき、以下引用して掲載する。
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(引用開始)
「完全無視」
これは,言うほど簡単では無いですね。
ワタシもこの年になってさえ,まだまだ,
完全無視は困難であると感じています。
誰かにちょっかいを出す子をなかなか
「構わないでおきなさい」とは言いにくいからです。
先生ならどうしますか?
わたしは,やはり「叱ります」
一喝です。
「相手の気持ちを考えてそうしてるのか?
自分さえ良ければ良い!では社会は滅びます。
戦争も起きます。
相手が困っているのが分かりませんか?」
最後には謝罪させ,反省文を書かせます。
とまあ,4月当初のファーストコンタクトがモノを言いますね。
(引用終了)
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なるほど、その通りで全く同感である。
特に、他の子どもにちょっかいを出している以上、放置できないというのはその通り。
一喝するのも手である。
具体を示していただいたので、その辺りについて、私のやり方も紹介する。
叱ることについては、学級開き初日に基準を示す。
学級の根幹となる絶対のルールを一つだけ示す。
「自分がされて嫌なことを他人にしない」
これだけである。
裏返せば、
「自分がされて嬉しいことを人にもしよう」
ということにもなる。
根底にあるのは、自分を大切にして、人を大切にするという、シンプルな考えである。
だから、次のような行為は、叱責、場合によっては怒りを伴って対処することを伝える。
誰かに迷惑をかける行為。
命に関わる危険な行為。
例えばいじめは、この両方の要件を満たす。
これらに対しては、即時その場で対応し、徹底的にたたかう姿勢を示す。
この気概を、初日に伝えることが肝である。
加えて、軽微なルール違反等であっても、三度目はアウトということも伝える。
「仏の顔も三度」という言葉も教える。
(誤解されていることが多いが、仏様でも三度目はもうアウトである。)
一度目の注意に対し二度目も行い、直そうとしないで三度目をした際は叱るし怒ることを伝える。
ルール違反そのものというより、教えてくれる相手に対し「聞く耳をもたない」その生き方の姿勢に対して叱るのである。
もう少し詳しくステップを示すと
1回目=教えてあげる(知らないこと・意識していないことによる失敗という前提。)
2回目=注意・警告(二回目は別物。)
3回目=叱る・怒る(アウト。改善の意思が見られない、または確信的とみなす。)
という流れである。
三度目でアウトになって一通り指導したら、野球と同じで一旦「チェンジ」である。
こちらもとりあえず忘れてあげる。
しつこすぎないのも大切である。
(そして、次も見逃さない。)
ちなみに、引用文の最後に「反省文を書かせる」とある。
かなり昔からある手段だが、批判もある。
「反省文を書かせても反省しない」というものである。
確かにそういう子どももいるかもしれない。
では、この方法に効果がないのかというと、決してそんなことはない。
私も使ったことが何度もあるし、自分を客観視させるのに有効な手段の一つである。
反省しないとしたら、その手法が相手に合っていないか、あるいは書かせる側のもっていき方に問題がある可能性が高い。
怖いのは、「〇〇の方法が正しい。××法は間違っている。」
という一面的で盲信的な信念の形成である。
特に、権威者が書いた文章には影響されやすいので要注意である。
権威者が間違えない保証など一つもない。
実際に目の前の子どもに使ってみて判断することである。
それも、Aさんには効き目抜群で、Bさんには悪影響ということだってある。
だから、安易に白黒つけてしまわず、あらゆる手法を認めて、自分の引き出しにしまっておくことである。
そうすれば、あらゆる場面に様々な方法で対応できる自分になれる。
包丁が料理に万能だからといって、何でもそれで切るのが正しい訳でもない。
にんじんの皮を剥くのには、ピーラーを使ってもいいのである。
幼い子どもに初めてやらせるのなら、そっちの方がいいかもしれない。
いや、料理人の子どもとして厳しく育てるのなら、本格的な包丁を使わせる手もある。
時と場合によりけりである。
話が二つになってしまった。
叱ること。
どういう手法をとるか。
そして、やはり最初が肝心ということである。
叱ること一つにも、哲学と信念をもって行いたい。
2018年4月22日日曜日
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