2018年4月9日月曜日

「考え、議論する道徳」に値するか

「考え、議論する道徳」について第三弾。

本気で、実際にどうやるか。

まず、話し合いを中心とした授業のベースとして「共通の土台」が必要である。
例えば「クラス会議」では、クラスの諸問題や、やりたいことについて話し合う。
話題自体が、子ども間の共通の土台に乗っているのである。
そこに関する知識がある程度共有されているのである。

ここで、前号に挙げた「電車で席を譲る」の授業場面を例に考える。

そもそも、電車に乗ったことがほとんどない子どももいるかもしれない。
しかし、ここについては、ある程度の想像はできるかもしれない。

お年寄りや妊婦が立って電車に乗っているというのは、どれほどの負担なのか。
これは、正直わからない。
(私にもわからない。)
完全に、想像の域を出ない部分である。

ところで、「優先席ではお年寄りや身体の不自由な方、妊娠中の方に席をお譲りください」と明示され、アナウンスもされている。
そう考えると、ここについては、もはや「道徳」以前のレベルである。
罰せられないだけで、マナーというよりもルールに近い。
「譲らない」という選択肢が、道徳抜きに、本来はありえない場なのである。

それでも平気で譲らない人は、道徳以前に単なるルール違反である。
こういうのはよくある。
つまり「ルールを守る」という前段階の徳目が前提にないと話が進まないということである。

続いて「優先席でなければ譲らなくても良いのか」という疑問が浮上する。
「優先席でなくても、困っている人には譲るべき」というのが、道徳的な価値判断である。
一方で、「だとしたら優先席の意味がない」という声も出る。
これも一理ある。
「優先席存在意義問題」である。

この辺りを中心に「考え、議論する道徳」でやっていく。
なぜかというと「それをより必要とする人に席を譲る」というのは、前提であり、話し合うべき内容ではないからである。
(こういう下らないことの「議論ごっこ」に時間をかけると、例の「しっちゃかめっちゃか授業もどき」になる。)

しかし「優先席は必要か」ということになれば、個人の価値観の違いが出る。
「ルールとしてやるのか、マナーとしてやるのか」という違いが出るからである。
「優先席があるからこそ、安心する」という意見もあれば、
「どちらにせよ譲るべきなのだから必要ない」という意見も出る。

この議論の中に、価値観の違いが表出するはずである。
それを知ること自体が、押しつけでない価値観の獲得になる。
「自分の価値観とは違う価値観が存在する」という認識である。

実際に授業をする時は、この「焦点化」がポイントになる。
「席を譲るべきか」といった、わかりきったことをきかない。
つまり、社会の中でも正解がはっきりしないことであれば、白熱した本気の議論になりやすいということである。
(「幸せとは」といような哲学的な議題を選ぶと、同じような結果が得られる。)

ただし、である。
まだ世に生まれ出てから数年から十数年しか生きていない子どもに、それを議論させる意味が本当にあるかどうかである。

何が正しくて、何が正しくないのか。
それを明確に背中で示してくれる大人がいるからこそ、思考が成り立つ。
議論するには「まだ早い」というのが本音である。
そういうのは、「志学」の15歳以降でもいいのではないかと思う。

考え、議論する道徳の目指す方向はわかる。
しかし、子どもには「考え、議論する」以前をきちんと教えておくことも大切である。
それには「日常がすべて」であり、道徳の授業以外の場面でこそ教えられることかもしれない。

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