前号の続きで、学級と社会との共通点として、ルールの担保の重要性について。
ネット上では、人々が互いに喧々諤々の様相であった。
(実際は、「社会では」なのだが、ネット上しか人々の姿が見えないからである。)
最も多いのが、自粛そのものについて。
国民は、政府から自粛を要請、場合によっては強制された状態である。
だから、真面目に聞いて自粛している人たちがいる。
一方で、自粛は必要ない、できないという観点から、動く人たちがいる。
当然、両者は喧嘩である。
同じ国の民同士なのに、めちゃくちゃである。
集団として互いに協力できない、わかりあえない、対立状態である。
これが、学級が崩れる時の様相に非常に似ていた。
教育メルマガであるので、そういう観点から見ると、学級経営に役立つので書く。
学校で、あるルールを設定する。
合意のもとに作ったものではなく、学校あるいは学級担任からのトップダウンのものとする。
学校単位だと、例えば「廊下を走らない」とか、今であれば「登校後は必ず手洗いをする」等である。
何でもいい。
ルールを一度設定したらからには、それを担保するのはリーダーの責任である。
ルールには、設定せざるを得ない、確固たる理由があってなされるべきである。
守らなくていいようなルールなら、最初から設定すべきではない。
さて、生活していると、このルールをきちんと守る子どもが大半である。
一方で、それを日常的に破っている子どももいる。
こうなってからしばらく放っておくと、二派で対立が起こる。
「真面目に守っている派」V.S.「破っている派」である。
諍いが起きて、疲弊し、犠牲者も出る。
そうこうしているうちに、全員の恨みが担任へといく。
ルールを設定したくせに、リーダーシップをとらないのが悪いということである。
全くその通りである。
さて、本来なら、ルールを設定した後に担任がやるべきことは、方向性として二つである。
まず一つ目は、ルールを守っている子どもへの配慮。
「真面目を優先する」の原則通り、こちらが優先である。
称賛なり感謝なり、とにかく守っていることを見ている、認めているということを伝える必要がある。
そうしないと、せっかく我慢しているのに、損した気分になるし、きちんと見てくれているのかどうかという点でも安心しない。
二つ目は、次点としてルールを破ってしまっている子どもへの対応。
学校の場合、罰を与えることはできないため、できることとしては注意、警告、説諭、叱責ぐらいである。
これも、叱られるのも全然へっちゃら、という場合、本人には全くきかない。
ただ、きこうがきくまいが、ルールを破った際には、何かしらそういったペナルティが課されると全員に共通理解されていることが重要である。
これは、スポーツをはじめとするゲームと同じである。
ぐずぐずな審判のゲームが最も荒れる。
集団の中であまりにルール破りが多い場合、全員一律に禁止という場合もある。
ちなみに、この「全体禁止」を学級で出す場合は、原則として先に予告をしておく必要がある。
ルールを破る人が多く、どうしてもなくならない場合は、安全のために厳罰化か禁止になってしまう、というようなことである。
全員に納得される形で改訂を示す必要があるため、先出しが原則である。
それにはスタートが肝心であり、各種契約書などはまさにこの原則を踏まえている。(「ここに書いてあります」は最強である。)
できれば、学級開きぐらいでそういう原則を示しておくのがベストである。
社会だと、飲酒運転などはこれにあたる。
再三の警告にも関わらず、あまりにも違反の程度と頻度がひどく、改善が見られないので、一律に厳罰化された。
元々飲酒運転を一切しない人からすれば痛くも痒くもないことで、至極当然の改訂である。
最近だと、虐待防止法の改訂である。
悲惨な事件が相次いでいることから、こちらも一律に厳罰化された。
きちんと子育てしていた人にとっては、「何のために」と言いたいところかもしれないが、これも当然の流れである。
まとめると、ルールを一度設定したからには、リーダーには責務がある。
それは、徹底させることである。
守った人にはプラス、守れない人には何らかのマイナス、例えば警告、ペナルティを課すといったことである。
これがないと、特に真面目に従って守っている側(リーダーを助けようという前向きな立場の人)が納得いかないのである。
これは、言うは易く行うは難しで、メンバー全員にこの配慮をしなくてはならなくなる。
つまり、ルールを一つ設定するということは、それ相応の「覚悟」と労力がいるということである。
「真面目な人に損させない」は学級経営の大原則の一つなので、学級担任にとって確実に押さえておくべき考え方である。
学級の子どもたちには、無益な荒れを経験させないように、ルールの設定は慎重にしたい。
2020年5月31日日曜日
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