2020年5月21日木曜日

自粛と「正義」~自己中心的とは何か~

今、全ての外出に自粛の規制がかかっている。
教員も、在宅勤務が基本である。

さて、そうは言っても、本当にずっと在宅勤務で業務が回るかというと、そういう訳にもいかない。
出勤して集まらざるを得ない場面というのはある。
リモートワーク用のネット環境の整っていない、多くの公立校の教員であれば尚更である。

実際、全ての人が完全に在宅で外出規制したら、社会はあっという間に崩壊する。
ものを作ってくれる仕事が休み。
届けてくれる運輸会社も休み。
近くのスーパーもコンビニもドラッグストアも休み。
それで何日間やっていけるかということである。

国会議員をはじめ政治家が家にこもらず外で活動しているというのは、国民のリーダーなのだから、誰でも納得である。
学校や会社だと、社長や管理職だと他と同じようには休めないというのも、何となくわかる。

では一般の教員はどうか。
これも、子ども集団のリーダーではないかと言われたら、その通りである。
結局、世間の目からしても、じっとしていないで何かしてくれというのが、当然出る本音である。

学校という立場一つとっても、立ち位置が難しい。
早く学校を再開して欲しいという声と、今再開して感染されたら絶対困るという両極とその間のスペクトラムの意見が飛び交う。

さて、そういう風に考えていくと、休まれると「世間」の人が困るという仕事は、休まないことに「世間」が納得する。
あるいは、働いてくれていた方が、自宅にこもるのに「便利」という仕事も、納得される。
「世間」とは、マジョリティ、多数のことである。
その仕事を行う個人の感染リスクは大幅に高まるかもしれないが、それもやむなしということである。
医師などその最たるものである。

では、そうでない仕事はどうか。
例えばデリバリーのできない飲食店は、今「世間」に自粛を求められる。
特に繁盛している飲食店は、批判の対象になる。
感染リスクが高まる上に、休んでも「世間」としては困らないからである。

もっとわかりやすいところだと、パチンコ屋などの娯楽施設である。
開店しているだけで批判の対象と化している。
元々が「世間」に必須ではないからである。(ニーズの場ではなくウォンツの場ともいえる。)

つまり「世間」が認める「正義」が厳然として存在する。
「世間」の「正義」は、いつも何によって規定されるか。
これは「多数決」である。
偽りの民主主義の原則は多数決だが、これは少数を切り捨てる。

このメルマガでも再三述べているが、正義は必ず犠牲を生む。
飲食店を自粛させて感染拡大を防ぐのは「正義」である。
感染拡大を防ぐという方向性は、全く正当であるし、すべての人にとって確実に必要なことである。

しかし、いつまで自粛すれば終わるのか、先が全く見えない状況である。
どんどん引き延ばされ続ける自粛の先に終わりがあるのかわからない。
ウィルス騒ぎ収束の前に、自身とその家族の生活の終わりが来てしまうかもしれない。

私は、学生時代にパチンコ屋でアルバイトしていた経験がある。
当たり前だが、パチンコ屋の社員の人々にも家族があって、つつましい生活があった。
他のあらゆる業種も同様である。

「自粛が正義」を強く主張し得るのは「とりあえず安全地帯」にいられる人だけである。(これはもちろん教員も含まれる。)
そうでなければ、多分苦しくて言えない。
自粛の継続が、即ち社会的な死を意味する人も大勢いる。
ウィルスそのもので死ぬのではなく、社会の圧力で間接的に殺されるのである。

これは「トロッコ問題」という有名な倫理学の思考実験に現れる。
多数の命を救うためには少数の犠牲は許されるか、という問題を孕んでいる。
極論を言うと、世界を救うためなら自分と家族の命を差し出せるか、差し出すべきか、ということである。

だから各首長から飲食店等に出るのも、どこも自粛要請という「お願い」である。
トロッコ問題でいうと、多数のために少数の犠牲を選ぶという、レバーを引く行為であり、「断腸の思い」ではないかと察する。
レバーを引かざるを得ない位置にいる人を、周りが非難・批判できるのかという問題である。
周りは「私が助かるためにあなたが犠牲になるべきだ」と言えるのかという問題である。

ところで、これは教員はじめ、在宅勤務による生活が成立している立場の人であると、実感が湧かない。
次のことを問うてみる。
自宅にいる間の給与は一切発生しないで生活は自己責任となるが、それでもあっさり受け入れられるか。
そういう追いこまれた立場にならないと、実際はなかなか本質的な問題は見えてこない。
「巣ごもり消費」も、収入と蓄えという前提があってこそである。

この外出規制、特定のものへの嫌悪、自粛ムード状態は、震災後にも類似した現象がみられた。
特に、放射能に対する時の世間の反応にとても似ているものがある。
この時も「正義」の声には「放射能問題は即解決して欲しいけど自分のところが関わるのだけは絶対嫌」という姿勢が散見された。
「正義」は、常に自己の利益の最適化を計算して設定される「自己愛」そのものである。

少なくとも、学校教育において、教室で子どもに教えていたのは、これではないはずである。
「みんなを大切に」「助け合って」「主体的・対話的に」「深く考える」ことを求めていたはずである。
学級の多数が幸せになるなら、一人が犠牲になってもいいなどという教育はあり得ない。

複雑な事情がそれぞれにある、個々にとっての正解は、いつでも一つではない。
あっちを立てればこっちが立たないという答えのない問題。
これに、みんなで「困ったね」と一緒に悩んでいるのが、本来の教室の姿である。
少数の切実で悲痛な思いが「多数決」という理由で切り捨てられるほど、悲しいことはない。
それは、いじめの構造そのものである。

学級で、どうにもこうにもならない、暴れん坊の子どもがいる。
あるいは、諸事情でどうしてもみんなと一緒の活動ができない子どもがいる。
これを「排除しよう」とするのは、簡単である。
一方で「どうしたら〇〇さんも一緒にうまく過ごせるか」「自分には何ができるのか」を話し合えるのが、健全な学級集団である。

社会の話に戻すなら、自粛せざるを得ない事業者等へ対して、自分には何ができるのかを考えることである。
「便利だから」という理由で利用され、大儲けしている事業者に更にお金を突っ込むのが本当に正しいのか、考えるべきところである。
ウィルスを最大限に恐れながら、リスクを最小限にして社会に利益を出すにはどうするのか、考えるべきところである。

また一方で、自粛といえば、公園での子どもの遊び方も話題になる。
濃厚接触への対策なし、全くの考えなしで大勢で連日遊び放題の子どもたちがいる。
そのせいで、適切に公園等で運動している子どもたちまでも、自粛を余儀なくされたり、批判の対象になったりしている。

こういうところは、考えるべき点である。
「恐れるべきを適切に恐れる」「リスクヘッジした上で行動する」ということを、子どもに教育するチャンスである。
子どもが全く運動しない、友達と関わらないというのも、将来的に見ればリスクの一つなのである。
「自粛」の一言で何もかもを一緒くたにしてはいけない。

教室でも何度も話題になる「自己中心的」とはどういう意味か、自分は仲間のために何ができるのかが、今改めて社会に問われているように見える。

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