実際に一年生にした話。
一年生は、元気がいい。
当たり前である。
言ってもすぐ忘れる。
これも、当たり前である。
何なら、あんまり聞いていない。
これも、当たり前である。
そして、自己中心的である。
これも、当たり前である。
これらのことをトータルして自然にしておくと、何が起きるか。
「連続バラバラ発言事件」である。
話の途中で、どんどん個人的な質問が出る。
しかも、前に言ったものと同じ質問が4連発で来たりする。
(しむらけんのコントと同じである。)
何なら、突然「昨日の夕飯がね」のような話が出る。
「それは後で、休み時間に聞くね」
と笑顔でさらりと流しておく。
(ちなみにここから、真意は単に「先生に話を聞いて欲しい」だけだとわかる。
そこへの対応は、それはそれで大切なことではある。)
さて、多少ならコントで済むが、毎日この調子だと問題が生じる。
教師が疲れるという問題も勿論ある。
しかし、それ以上に、きちんとやろうとしている子どもが疲れてしまうという問題が大きい。
例えば、先生の話や友だちの発言・発表をきちんと聞きたいのに、一部の途中の勝手な発言に遮られて聞けない。
もし先生が途中で勝手にしゃべった人に対応したなら、それが終わるまで待たなければいけない。
それが何度も繰り返されれば、当然話に集中できなくなる。
黙って真面目に聞いてる方が損をするのである。
それなら、自分も話の途中に大声で「し・つ・も・ん・でぇーす!」と叫んだ方がお得であると学習してしまう。
「真面目にやる人に損をさせない」というのが基本方針である。
よって、ここを落とさないようにする。
どうしたか。
とりあえず、次のことを教えた。
一番いいのは、自分で考えてわかること。
これは、周りの友だちの様子を見て自分でわかることも含める。
二番目にいいのは、友だちに直接聞いてわかること。
教えてあげられる人は素晴らしいという話も添える。
これは、教える側、教わる側の双方にとって利益がある。
三番目が、先生に聞くこと。
一と二をやってもわからないことは、聞いてよい。
ここで初めて「質問」が登場する。
これは、勉強の仕方のステップと同じである。
本来は、教科書や参考書を見て、自分でわかるのが一番いい。
黒板に書かれたものや、周りの人のやり方を見てわかればそれもいい。
自力で調べてわかるようなら、それも大切な学力である。
次は、周りの友だちに聞くこと。
助けてもらってわかるようならいい。
しかし、その後は、自力でもう1回やる必要が出る。
最後の手段が、大人に聞くこと。
正解を聞いて満足しない。
やはり、自力でやるというステップが必須である。
結局、まずは自分でわかろうという姿勢が基本である。
学力の根本は、黙って聞く力である。
これらは、一年生でも社会人でも同じである。
質問は、黙って自力で考えてから。
思いつきの勝手な発言が溢れる教室を「元気がいい」なんてイメージ語で済まさない。
どんな相手であっても、指導の原理・原則は同じである。
2018年6月6日水曜日
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