2018年6月23日土曜日

ルールと自由

前号の続き。
学校は、ルールの中での自由を学ぶ場であるというスタンスで考える。

例えばクラス会議では、自治的集団を目指す。
アドラー心理学でいう「共同体感覚」を身に付けることが目的となる。

これには、ルールが伴う。
全員に確実に話す順番が平等に回ってくる。
発言中は聞く。
暴言や発言中の横槍といった横暴は許されない。
だから、安心して発言できるのである。

ただし。
実際の社会がこうであるかというと、話はまた別である。
会議の最中におしゃべりや居眠り、暴言やヤジ。
(国会ですらしばしば問題になる。アピールを兼ねた計画的な行為でもある。)

つまり、本番は、もっときつい。
そこに慣らしていくという意味でも、いつまでも型通りではいけない。
守破離の守をきちんとやったら、段階的に崩していく必要はある。
そう考えると、クラス会議も、生き物である。

ルールというのは、自由になるためにある。
だから、初期段階では、ルールを外さない。
自由な学びを保証したいからこそ、まずはルールをつくる。

学校をはじめとする社会における自由は、タダではない。
無人島の自由とは違う。
先人の血のにじむ努力によって獲得されたものである。
選挙の自由も当たり前のものではないし、学校で学べることも働けることも当たり前ではない。

安全に生きる自由を与えられているのだから、ルールを守る義務がある。
ゲームだったら悪質なルール違反やその繰り返しは最終的に「退場」の処分である。

学校や家庭では、処分をしない代わりに、叱る。
時に怒る。
そして、ほぼ100%許す。
社会に出る前段階の練習の場だからである。
許されることに甘えさせてはいけない。
許されなくなる本番は、目の前だと思って教育に当たる。

自由なクラスを作りたいと熱い思いをもつ若者に向けて、その実現のためにもそこはきちんと伝えておきたい。

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