前号の続き。
学校は、ルールの中での自由を学ぶ場であるというスタンスで考える。
例えばクラス会議では、自治的集団を目指す。
アドラー心理学でいう「共同体感覚」を身に付けることが目的となる。
これには、ルールが伴う。
全員に確実に話す順番が平等に回ってくる。
発言中は聞く。
暴言や発言中の横槍といった横暴は許されない。
だから、安心して発言できるのである。
ただし。
実際の社会がこうであるかというと、話はまた別である。
会議の最中におしゃべりや居眠り、暴言やヤジ。
(国会ですらしばしば問題になる。アピールを兼ねた計画的な行為でもある。)
つまり、本番は、もっときつい。
そこに慣らしていくという意味でも、いつまでも型通りではいけない。
守破離の守をきちんとやったら、段階的に崩していく必要はある。
そう考えると、クラス会議も、生き物である。
ルールというのは、自由になるためにある。
だから、初期段階では、ルールを外さない。
自由な学びを保証したいからこそ、まずはルールをつくる。
学校をはじめとする社会における自由は、タダではない。
無人島の自由とは違う。
先人の血のにじむ努力によって獲得されたものである。
選挙の自由も当たり前のものではないし、学校で学べることも働けることも当たり前ではない。
安全に生きる自由を与えられているのだから、ルールを守る義務がある。
ゲームだったら悪質なルール違反やその繰り返しは最終的に「退場」の処分である。
学校や家庭では、処分をしない代わりに、叱る。
時に怒る。
そして、ほぼ100%許す。
社会に出る前段階の練習の場だからである。
許されることに甘えさせてはいけない。
許されなくなる本番は、目の前だと思って教育に当たる。
自由なクラスを作りたいと熱い思いをもつ若者に向けて、その実現のためにもそこはきちんと伝えておきたい。
2018年6月23日土曜日
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