学級開きとルールに関する話。
次の本を紹介する。
『赤坂真二&堀裕嗣直伝!最強の学級開き』 明治図書
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-240213-5
学級開き本の新刊である。
元は、明治図書の『授業力&学級経営力』誌NO.85(2017年4月号)で、これが好評を博したため、加筆して書籍化されたものである。
私もご縁があり、「全員で課題達成の経験を積む」というテーマでほんの少し執筆させていただいた。
さて、この本のハイライトは私の書いた些末な記事、ではもちろんない。
編著者のお二人のクロストークである。
小学校と中学校の学級経営システムの違いについて語られている。
特に印象に残った部分を、やや長いが以下に引用する。
なお、前半部分は堀裕嗣先生、中略後の後半部分は赤坂真二先生の言葉である。
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(引用開始)
いずれにしても、いい機能を発揮する、子どもたちが困らないようにする、
そこを基本に統一すべきものとそうでないのは決まるんじゃないでしょうか。
決して学校の見栄えがよくなるとか学校に統一感をもたらすためとかに統一指導するわけじゃない。
ここはとても大事だと思いますよ。
(中略)
ただ,「揃える」ということに慣れていないために、
「子どもたちの利益になる」といったベクトルではなく、
「クレームがつかない」といったベクトルで「揃える」ような事例があちこちで生まれているようです。
(引用終了 但し改行は松尾による)
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これは、教師にとって考えるべき重要な指摘である。
学級開きは、比較的各担任の独自性が認められる。
それでも、本来統一すべきルールとそうでないところがある。
その違いが、ずばり子どもの利益を考えているのか、「保身」によるものなのかということである。
実際、統一ルールの中には「クレームがつくから」という理由のものが結構多い。
例えば、通知票。
多くの通知表には「生活のようす」という欄がある。
「誰とでも公平に接することができる」等の欄に〇がつくあれである。
あの〇をつける数が、「最低1つ、多くて4つ」等、学校または学年単位で統一されていることが多い。
これを「〇の数の差による保護者からのクレームを防ぐため」と捉えているか、
「一人の教師の主観による、子どもへの評価の差を小さくするため」と捉えているか。
前者の目的は保身であり、後者の目的は子どもの利益である。
本来の目的は、もちろん後者である。
実際、道徳的な面は教師の目には見えづらい。
例えば教室では一見乱暴で無愛想なようでいて、実は優しいということは往々にしてある。
(そして、逆もある。)
だから、一人の教師による評価の幅はある程度に納めた方がよいという発想である。
この〇の数を統一する方法が本当に良いかどうかは別として、子どもの利益を第一に考えていることは大切である。
ちなみに、このクロストークの中では「掲示物の位置」「学級通信の発行」等の話題についてもふれている。
こういったことを統一すべきかどうか。
目的は保身か子どもの利益かを考えれば、答えは出る。
これらが学級開きと何の関係があるのかというつっこみは一面正しい。
しかし、学級開きではこういったことも見通してルール等を伝える必要がある。
学級開きは学級の年間計画、あるいは卒業までを見通したあらゆる計画の具現なのである。
クロストーク部分の立ち読みでもいいので、ぜひ一度手にとって見てもらいたい本である。
2018年3月16日金曜日
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