「信・敬・慕」についての関連で、今回は権力と権威について。
権力と権威は似て非なるものである。
どちらも共通点は、人が動くという点。
相違点は、前者が職業や地位につくのに対し、後者は人間につく。
そして、人は権力には逆らいたがり、権威には進んで従う性質がある。
教師という立場には、権力がつく。
たとえ新卒1年目でも、30人を越える人間が毎日自分の話を何時間も聞いてくれる職業とは、実に稀である。
しかも、子どもというのは、多くの親にとって文字通りの「宝物」である。
人様の「宝物」を預かって、そこに対し毎日教育を施す。
とてつもなく大きい権力である。
(だから一方で、社会的に叩かれやすい職業であるのも、ある程度納得できる。)
権力を感じる職業といえば、警察。
こんなにみんなを守ってくれているのに、裏で文句を言われる仕事も珍しい。
特にドライバーにとって、パトカーや白バイは脅威である。
白バイやパトカーを発見すると、一様に急に車の速度がゆっくりになる。
(教師の前でだけ廊下を走らないという現象に似ている。)
繰り返すが、「立場」に対してつく権力であり、一個人へ対してではない。
その職業なり会社なりを辞めた瞬間から、一瞬で無くなる。
一方、権威はその人自身に対してつく。
人が従うのは同じだが、こちらの場合、相手を認めることで進んで従おうとする点が違う。
つまり「信・敬・慕」は権威に属す。
「教師」という地位にはついてこない。
何が言いたいかというと、言うことをきくからといって、「教師」という立場につく権力にあぐらをかいてはならないということである。
それをしていると、いつか報いがくる。
だから、権力を正しく使わせていただきながら、「信・敬・慕」の関係を築こうと努力すること。
主体変容である。
ただ無闇に子どもに「言うことをききなさい」というのは、これに反する。
教師の側が、言うことを聞きたくなる人間になる方がはるかに大切である。
この人の言うことは本当で、信頼できる。
この人はある点において自分より上であり、尊敬できる。
この人は自分のことを思ってくれていて、慕える。
そういう風には、自然に思ってもらえるものではない。
ただ、教師という地位は、努力と心がけ次第でそれを実現させやすいはずである。
権力と権威を履き違えないように、感謝の気持ちを忘れずに指導に当たりたい。
2015年3月3日火曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿