当然すぎる前提だが、学習の主体者は、学習者自身である。
(ちなみに「授業の主役は誰か」ということとは違う種類の話である。)
「馬の耳に念仏」という諺もあるように、どんなにいい話でも受け手9割である。
要は、どんな現象が存在するか以上に、学習者側が「何を学習するか」の方が大切である。
今回、ここについて、雨が降った時の学校の送迎を例に考える。
スクールバスがないのに学区が広い学校の場合、雨の日は保護者による送迎が目立つ。
(特に安全面で心配な低学年に顕著である。)
都内などの公共交通機関が主の地域は別として、車社会の地域であれば、割とどこでも見られる現象ではないかと思う。
この「送迎」というのは、雨が降ったこと、距離が遠いこと、そこに車を所有していることに起因する「現象」である。
一昔前には無理だったことも、今は可能である。
少なくとも根本には、我が子への愛情があると思う。
この「送迎」自体の是非は決定しづらい面がある。
例えば不審者や交通事故等の多い地域などは、雨が降らずとも、送迎することがあると思う。
歩く大切さもわかる一方で、我が子の安全を優先したい気持ちが働くのも無理なからぬ話である。
ここで本当に考えるべきは、送迎される側(子ども)が何を学習するかである。
「雨が降る」→「送迎あり」→「楽」という思考回路による「負の学習」では、逆効果である。
「雨が降ると迎えに来てくれる」→「守られている・大切に思われている」→「感謝」なら、話は別である。
「忙しいのにわざわざ」などと考えるようなら、尚更意味がある。
また、子どもの送迎はしないという選択もあり得る。
こちらも「〇〇ちゃんの家は送迎してもらえる」→「ずるい」の思考回路による学習では、逆効果。
「うちの親は送迎しない」→「自分でできることは自分でやれる人になるため」と理解しているなら意味がある。
また「他人の家は他人の家。うちはうち。みんな違って当然。」と割り切って考えることも意味がある。
要は、現象に対する「意味づけ」をどうできるかが、教える側の腕の見せ所であり、唯一できることである。
別の例だと、例えば長縄で「記録がずっと伸びない」という現象に、どう意味づけできるか。
つまり、この現象から子どもが何を学ぶように仕向けていけるか。
これによって、この後本当に記録が伸びるか伸びないかが決まる。
長縄への取り組みを通して学ぶ内容も大きく変わる。
ともすると、ついつい目の前の現象に振り回されやすい。
しかし現象以上に、それが教育として見た時、子どもが何を学習するかを考えること。
それが現象の陰にある「本質」である。
どうせなら、同じ現象にも、よりよい意味づけをできるようにしたい。
2015年3月27日金曜日
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