赤坂真二先生の講座からの気付き。
勉強家の人がたくさんいる。
様々な場へ出かけて、様々な人から学んで感動して帰ってくる。
そして実践する。
この努力が、意外にも報われない結果になるという。
これは、肌で感じられる人が多い現象である。
なぜなのか。
ずばり、「観」の異なる人から学んで、それを両方やるからだという。
例を挙げる。
先月、結果主義の人から学んだ方法を実践し、
今月、過程主義の人から学んだ方法を実践したとする。
何が起きるか。
子どもは「結局どっちが大事なの!?」と混乱する。
「結果を出すのが大切」と言われてがんばってきたのに、
突如「結果が全てではない」と正反対のことを言われる。
結果、どっちつかずになる。
私はこれをきいて
「観違いはうまくいかない」
という言葉にまとめた。
繰り返し述べているように、観が全てである。
同じ方法を用いていても、どんな観があるかで意味は180度変わる。
例えば全員ができる、全員が百点を目指す実践。
単にすごいだろうと言いたいだけなのか。
平等主義に基づいているのか。
できずに苦しんでいる子どもたちに自信をつけさせるためなのか。
同じ方法を用いても、全く違う。
つまり、その人の思想、観の部分をこそ学ぶ必要がある。
一見成果が上がる方法でも、観違いがあるなら、取り入れない方が賢明である。
有名な先生の言うことだから、と無思考で従うのは、ロボットと同じである。
その先生の人間性に感動し、ついていきたいと思うなら、それもありだが、その場合、他の方法を捨てる覚悟も出る。
また、感動し、憧れた相手が、自分のもつ性質とは異なることもある。
自分がついていくべき人か、あるいは自分に合う手法か、見極めが必要である。
有名だから、広がっているからいいという訳ではないということである。
観違いの実践が混じってないか。
勉強家のあなたこそ、点検する必要がある。
2018年11月27日火曜日
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