教育における「平等」をどう考えるか。
家庭的に大変裕福で、何かと恵まれた境遇の子どもがいる。
この子どもが学校に来て必要な学ぶべきことは「鍛えること」や「厳しさ」かもしれない。
信じられないほど辛い境遇で育っている子どもがいる。
この子どもが学校に来て必要としていることは、「安心」や「リラックス」、あるいは「甘え」かもしれない。
(肉体的な「栄養」という場合もある。)
この極端な両者の間にも「スペクトラム」として様々な境遇の子どもが存在する。
学校ではこれらの子どもを一手に担い、必要な教育をする。
個の境遇の差が大きいほど、教える側の大変さは増す。
例えば学力に限っていっても、レベルがある程度揃っている方が、教える側は当然教えやすい。
1けた同士の足し算が危うい子どもと、中学レベルの問題を解ける子どもを一緒に引き上げるのは、かなり難しい。
これを一見可能にするのが寺子屋方式となるが、落とし穴がある。
その集団において主に「教える」側に立った子どもをさらに引き上げるには、その子どもたちのためだけの課題や時間が別途必要となる。
結局、どの方法をとっても最終的には個に応じた指導が必要になるということである。
では実際の学校においての「平等」な教育とは何か。
学校の役割は、ごく極めて単純化すると、子どもを今より良くすることである。(学力に限らない。)
即ち、平等な教育とは、すべての子どもがそれぞれ良くなる教育である。
そういった環境を提供することである。
つまり、一律に同じ手では駄目ということである。
その子どもが成長に必要としていることが違う。
勉強を丁寧に教えてあげる必要があるのか、逆に人に教えさせる必要があるのか。
甘えさせるのが必要か、厳しく鍛えるのが必要か。
手とり足とり助けてあげるのが必要か、見守ってあげるのが必要か。
それぞれの必要性に合う方法を提供するのが
「一人一人を大切にする」
ということになる。
その前提となるのは、教師の側の知識である。
ニーズを見抜く目があること。
ニーズに必要な手立てを打てること。
どちらも知識である。
全く知らなければ、見えないし、手を打つこともできない。
経験から得た知識は貴重である。
しかしながら、間違った知識というものも中には存在する。
だから、自分の知識とエビデンスの揃った先行研究とを見比べる必要が出る。
汎用性の有無にも関わる。
Aさんに効果抜群の手が、Bさんには最悪ということもある。
これも、知識として必要である。
「平等」な教育の実現のために、教える側の知識の大切さについて、もう少し突っ込んでいく。
2018年11月8日木曜日
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