揃える。
大切である。
例えば、物の位置。
提出物がめちゃくちゃに出されると、処理に困る。
例えば、掃除道具。
揃っていることが、掃除そのものへの心構えになる。
さて、揃えない方がいいこともある。
その最たるものが、やり方である。
個人のもつ能力は、十人十色である。
ある人にとって楽なことが、ある人にとっては苦痛。
ある人にとっては簡単なことが、ある人にとっては困難。
こういうことは、例を挙げればきりがない。
先日、学級づくりの校内研修会でこの話をしたところ、ベテランの先生から質問か出た。
「一年生でも、揃えない方がいいですか。」
これは、本質を捉えた質問である。
一年生で、色々と学年で揃えることの本質的な意味。
それは、子どもにとっての「学びやすさ」である。
ただでさえ戸惑うことの多い一年生を、混乱させないこと。
隣のクラスも同じようにやっている。
そうすると、ルールが理解しやすい。
だから、低学年では、揃えることが多くなるのである。
高学年は、やり方を変えても、子どもがついてこられることが多い。
そこは大きな違いである。
ちなみに、中学になると、また色々と揃えるようになる。
制服もその一つといえる。
これも、生徒の学びやすさにつながる。
なぜなら、中学は、教科担任制である。
毎時間、違う先生に習う。
ルールにばらつきがあると、お互いに不都合が生じやすい。
制服の話も同様で、ルールが統一されることで、実は安心感が出る。
多感な時期に、毎日着る服に悩む必要がなくなる。
家庭の経済的にも助かる。
私服校はここが自由な分、より自己と家庭への責任が重くなる。
自由をコントロールする力が必要になる。
入学自体が困難な学校に私服が多い理由も、自由をコントロールする力の育成と無関係ではないはずである。
話を戻すと、揃えるか揃えないかは、すべて子どもの学びやすさ基準である。
揃えることが、教師の都合のみであってはならない。
学年で何を揃えているか。
学級で何を揃えているか。
そして、それらは子どもの学びやすさにつながっているか。
チェックしてみると、見えるものがあるかもしれない。
2018年11月20日火曜日
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