「当たり前を躾ける」という手法の落とし穴について。
望ましい行動を、ほめて、認めて、広げる。
大変効果のある方法である。
しかしながら、劇的に効くものは、用法に注意である。
ここでの落とし穴は、「当たり前」として躾けたい「望ましい行動」の部分である。
それが本当に社会的に見て「望ましい行動」なのかという点である。
ここを間違えると、どんどん悪い習慣を身につけることになる。
例を挙げる。
例えば「思ったことをどんどん発言できる」という行為。
これを〇とするか×とするか。
恐らく、〇をつける人が多いのではないかと予想する。
保護者も多くは「もっとうちの子も積極的に手を挙げて発言できるといいのですけど」と話す。
社会的に見て、〇と見られる行為である。
ここに落とし穴がある。
社会の誰から見ても×な行為で、実際に×なら問題ない。
社会の誰から見ても〇な行為で、実際に〇ならこれもよい。
しかし、問題は社会一般で〇と思われていて、真実は×な行為というのがある。
あるいは、社会一般で×と思われていて、真実は〇な行為というのがある。
この二種類が、落とし穴である。
また、場によって真実の〇×が逆転する場合もあるので、より注意が必要である。
こういう曖昧な玉虫色の論を述べられても、すっきりさっぱりしないだろう。
だから言い切る。
特に低学年において、思ったことをどんどん発言できるという行為は、×である。
一方で〇なのは、他人の話をよく聞けるという行為である。
一年生の教室を想像すればすぐわかる。
放っておけばみんな、誰が発言していても、自分がしゃべりたい放題である。
なぜなら、これまで暮らしてきた「私」の場である家には、そんなルールはないからである。
(むしろ憩いと回復の「私」の場である家庭に、そんな厳密なルールがあったらちょっと息苦しい。)
幼稚園や保育園だって、そこまで黙って話を聞かされる機会はそうないだろう。
一年生における難しい問題は、思ったことをどんどん発言できないことではない。
さっぱり話が聞けないことである。
これは、特に低学年における学級崩壊の問題の原因そのものでもある。
おしゃべりは、無教育でできる。
一方で、人の意見を聞いた上で伝わるように自分の意見を話すという行為は、多くの場合、教育しないとできない。
人間は他人が話している時に、我慢して聞くことが苦痛なのである。
自分がしゃべりたくてうずうずしているのである。
いわんや、幼い一年生においてをや、である。
それが「自然」な姿である。
自然を自然のままに伸び放題にしておいて良いのなら、教育はいらない。
一年生に話を聞かせずに自由に喋らせまくるのは、楽である。
草が伸び放題にはびこるのを放置するようなものである。
そして、自分も物わかりの良い、「自由でのびのび」とした教育をしているような気になりやすい。
誰でも簡単にできる「楽勝」な方法なので、採用しやすい。
やがて、収集がつかなくなり、手が付けられなくなって、壊れる。
もう、その崩れる過程がありありと目に浮かぶ。
これがいつになってもなくならない原因が、冒頭にあげた
「思ったことをどんどん発言できるのは〇」
という一般の認識、誤認である。
教育システムや宗教観等が変わればそれもあり得るかもしれないが、現在では完全にアウトである。
思ったことは、外に出す前にまず思考すべきである。
そのまま口に出せば、考えの浅はかな発言になり、単なるおしゃべりになる。
つまりは「喋る」ではなく「黙る」「聞く」を教えるのが先である。
では、全く喋らせないのかというのかというと、それは違う。
話す力は必要である。
長くなったので次号。
2018年11月4日日曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿