休日に書いたゆるめエッセイ。
人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ
~チャーリー・チャップリン~
とてもいい言葉である。
チャップリン自身も、悲劇のような自分の人生を、喜劇を作る力へと転化させた。
人生を喜劇に変えるコツは「自分を俯瞰して見る」ということである。
例えばイチロー選手は現役時代、記者からのインタビューの際、自分のプレーについて、他人のことのように淡々と語っていた。
スポーツ選手は、大抵そうである。
俯瞰して見ているからこそ、メタ認知ができる。
担任に戻して考えてみる。
本人にとっては大まじめだが、傍から見ているとコントということは多い。
例えば1年生の子どもたち。
泣きながら本気で大げんかをしている。
聞いてみると、お互いに「いじわるされた」という。
T「何て言われたの?」
C1「ばかっていわれた」
C2「ぼくはうんこっていわれた」
会話の内容がハイレベルすぎて、真面目に聞き続けるのは辛い。
しかしこれを冷静な顔で対応できるのがプロである。
「馬鹿はいけないよね。うんこもいけないね。」
「ごめんなさい」
で、また一緒に遊びに行ってしまう。
遠目に見ていたら、会話の内容自体はわからない。
しかし、実際はこんなやりとりがなされているのである。
担任が怒っている時も、結構コントなことが多い。
例えば「何で〇〇してるの!」は、子どもに聞いても無駄なことが多い。
忘れ物が多いとか、机の中がめちゃめちゃとか、字が汚いとか、怒っても無駄である。(しかし注意したくなる。)
そして怒っていると、呂律(ろれつ)が回らなくなっていたり、やたらな難しい言葉を使っていたりする。
そして挙げ句の果てに出た言葉は
「言語道断です!」
(ゴンゴドウダン?)
しかし、その迫力に子どもは「これはゴンゴドウダンなわるいことなのだ」と理解する。
(やがてゴンゴドウダンが「言語道断」として国語で登場した時は、きっと感動である。覚えていれば。)
しかし本人は大真面目であるというのが、局所的に悲劇なのである。
家庭で考えてみる。
「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」という。
ケンカの原因は
「話を聞いてくれない」
「いつも不機嫌」
に始まり、
「味噌汁の味がうすい」(あるいは熱すぎる、ぬるすぎる)
「トイレの便座が上がっている」
「電気が付けっぱなし」
とかである。
もっと深刻な議題の夫婦喧嘩も存在するかもしれないが、大抵この程度がきっかけでケンカになる。
どれも本当の根本的な原因は
「愛情が足りない」
である。
もっと自分に関心をもって、というだけの話である。
ロミオとジュリエットばりに「はいはい」という感じである。
例えば、我が子に「何でできないの!」とキレている親の図も、傍から見ると喜劇である。
観客の立場だったら
「それはね・・・実はあなたがね・・・」
と教えてあげたくなるかもしれない。
自分の世界で忙しそうにして悲劇を演じている人も、喜劇である。
傍から見れば、全部「エンターテイメント」である。
(しかし世がゴシップや政治の不正、犯罪や事故等の話題で盛り上がるのは、個人的にはいただけない。)
悲劇を喜劇にする。
チャップリンの目があれば、担任生活は喜劇の題材の宝庫である。
2018年12月7日金曜日
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