2018年12月3日月曜日

昔話は、問わない。

先月の野口塾での学び。
私の道徳の提案に対し、さくら社の社長である横山験也先生がご指導くださったものをシェアする。

私の提案を一言で表すと
「昔話や神話のようなものを道徳教材文にした場合、不都合が起きる」
というものである。
かねてより繰り返している通り、お話とは本来が道徳教育用ではないからである。

浦島太郎が最後にひどい目に遭うのは、不条理であり道徳的ではないが、お話としては面白い。
金の斧の話では、鉄の斧以外の品はそもそも必要ないのだが、もらえてしまうのである。
間違えると、「道徳」を教えるはずが「道得」の学習になる。
やればやるほど、功利的で利己的な人間を育てることになる。

さて、ここに対し「発問」で道徳に導こうとしたのだが、ここに関してご指導をいただいた。

そもそも昔話は、問うものではない。
読めばわかる、感じる、というものである。
例えば「なまはげ」の存在は、悪い子がいたら連れていかれるというだけの話。
語りであり、そこに問いはない。

一方で「教材文の不備を疑う」という姿勢に対し、評価をいただいた。
道徳の教科科は始まったばかりであり、教材文についてもこれから検討が必要ということである。
頭から「信用」して用いてはいけないということである。

道徳が教科化したからこそ、教材文にものが言えるようになったという。
教材文が、共通の議論の土台に乗ったともいえる。

本当に何が正しいのか。
「考え、議論する道徳」を実施する教師の側にこそ、問われる姿勢である。

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