2018年8月26日日曜日

「道得」に要注意

「金の斧」におけるご褒美の話の続き。
この手の話はたくさんある。

「この金の斧みたいに、正直にしたらいい目にあって、嘘をついたらひどい目にあう、という話あるでしょう。」
一年生に問いかけたところ、即座に
「おむすびころりん」「花さかじいさん」と返ってきた。

その通り。
じいさんは、落としたおむすびを追いかけただけである。
大事だから。
そしたらなぜか歓待された。

じいさんは、犬を救っただけである。
可哀相だったから。
そしたらなぜか、大判小判がざっくざく。

かさこじぞうも、売れなかった笠をつけてやったら、お金や米俵になって返ってきた。

道徳的にみると、そのご褒美は、いらない。
心からの行為に、本来見返りとしてのご褒美は不要である。
主人公たちは、それを期待していないからこそ、逆に幸運を授かっている。

私の友人曰く、
「神様は正直な人を応援したくなる、ということを学ばせる」
と解釈できるという。
その通りである。
しかし、物語を読む側には、いいことをすると得をするという解釈にもなり得る。

大人は、結構こういう「失敗対応」をしがちである。
子どもが、いわゆる「善いこと」を何の気なしに当然やっている。
それをつい、褒めすぎてしまったり、ご褒美を与えてしまう。

それが「行動の強化」をねらっているならいい。
犬のしつけの仕方はまさにこれで、飼い主の求める行動をとったら、すぐご褒美の餌をやることを繰り返す。
時々ご褒美なしにしていき、やがて、ご褒美がなくてもやれるようになる。
(逆に、ダメな行動の強化の仕方は、すぐに叱ったり大きな声をあげることだという。
ドッグトレーナーの方の話だと、落ち着いて「無視」「その場から立ち去る」「嫌な音を出す」あたりが定石だという。
学級経営における「望ましくない行為」への対応と通じるものがある。)

しかし、繰り返すが、人間は、犬ではない。
褒められるから動く、叱られるから従うのは、主体的とはいえない。
(「管理」する側からすると、これが最も楽である。)
自分が心から正しいと思った行動を、自ら選択していく人間に育てたい。
一生世話をしてもらえる犬とは全く違って、人間は、自立を目指す必要がある。

要は、善いことをしたらご褒美をもらえるよ、という図式は、主体的な人間を育てない。
善いと思ったからやる。
誰が見てなくてもやる。
自分が納得するからやる。
育てるべき態度は、それだけである。

だから、善い行為を見たら
「〇〇しているんだね」
と認めるだけでいい。
「認めている」=「見て留めている」ということを伝える程度で十分である。

「金の斧」の話は、道徳で見た場合、鉄の斧だけを返してあげればいいのである。
金の斧と銀の斧を渡すことで、間違った解釈にいきかねない。
しかしながら、その方が物語として面白いから、金の斧も銀の斧ももらえる訳である。

前号でも書いた通り、物語は物語として面白いのが大切であり、必ずしも道徳的である必要性はない。
金の斧はイソップ童話であるが、登場する神様のヘルメースは、ギリシャ神話に出てくる神である。
ヘルメース自身は、明らかに不道徳な行為が目立つ神である。

そしてギリシャ神話は、不道徳のオンパレードである。
トップのゼウス神はその筆頭。
神様のリーダーだが、とんでもなく不道徳で理不尽である。
ギリシャ神話は「フライ〇ー」「週間〇春」辺りのトップを飾りそうな話ばかりである。
古来より、大衆には不道徳な話の方が人気なのである。
酒・タバコ・ギャンブル・噂話に始まり、娯楽的には不道徳が大好きなのである。

道徳で物語を用いる場合は、この辺りを考える必要がある。
物語は必ずしも道徳的にはできていないから、変なおまけがたくさんついていることがある。
道徳というより「道得」になっている可能性もある。

子どもの善い行いを、褒めすぎないこと。
子どもの不道徳な行いに、着目しすぎないこと。
子どもは、やんちゃでめちゃめちゃで、いたずらが大好きなのである。
陰口も叩くし、意地悪もするしけんかもするのである。
それが、人間である。
それも通して、成長である。

管理しやすさを求めるあまり、「道得」的にならないよう、気を付けたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング