タイトルは、新宿での定例セミナーを主催してくれている友人に聞いた言葉である。
この人が尊敬する、ある先生から教わった言葉だそうである。
どういう意味か。
自然は、人間には操作できない。
人智を越えた領域である。
夏は暑いのが嫌とか梅雨が嫌とか言ってもどうしようもない。
台風にあっち行けという訳にもいかない。
嫌でも地震も雷も起きるし、噴火も起きる。
自然というのはそういうものである。
そして子どもも、大自然の一部であるという考え方。
確かにその通りである。
操作できる訳がないし、理解しきれる訳がない。
そう考えると、見え方も変わるし、対応も変わる。
そもそも、自分自身でさえ、ほぼ理解しきれない。
指一本動かせる仕組みも、考えられるという仕組みもよくわからない。
心臓が動いてくれたり、胃が消化してくれたりする仕組みも、何もかもよくわからない。
寝ている間も24時間はたらいてくれて、息をするのも忘れることはないし、ありがたい限りである。
つまりは、よくわからない自分が、よくわからない相手に教えているわけである。
そんなの、よくわからないに決まっている。
よくわからない教師が、よくわからないながら子どもに教えている。
よくわからない親が、よくわからないながらわが子に教えている。
よくわからない上司が、よくわからないながら部下に教えている。
よくわからないなりに、「こういう場合もあるかな」「こうかもな」という経験的知識があるだけである。
当てはまらない場合だってたくさんあって当然。
相手は、「大自然」なのである。
こうすればこうなる、が通用しなくて当然。
こういったのに、やったのに「お。そう来たか。」である。
自然は、常に変化し続け、この世に二つと同じものがないのである。
「大自然」である他者を自分がどうこうできるということ自体が、傲慢であり錯覚であるのかもしれない。
親や教師というのは「大自然」である子どもを一時的とはいえ預からせていただける。
これ自体、重要かつ大きな仕事である。
目の前の子どもも、大自然。
そう思うと、畏敬の念も湧くし、ある種の余裕ができる。
教育観を広げる一つの考え方として有益ではないかと思い、紹介してみた。
2018年8月27日月曜日
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