2018年8月7日火曜日

「常識」は敵

ずっと以前、コンビニで1Lの牛乳を買ったら
「ストローをおつけしますか?」
と言われた時の衝撃について書いたことがある。
「おいおい、そんなもんいるわけないでしょ。」
と感じるのが、その時の私の「常識」的反応。

ここを、考え直させられる場面を見た。

少し早い時刻に帰ると、いつも駅のホームで高校生がたむろしている。
部活帰りのようである。
彼らのうちの何人かが、1Lのパックにストローを差して飲んでいる。
ジュースもあった。
コーヒー牛乳もあった。
何か飲むヨーグルトっぽいのもあった。

そうなのか。
今時の(というあたりがオッサン)高校生には、結構「普通」のことだったのか。
そんなに甘いものを一気に飲んで、胃もたれしないのか。
あのコーヒー牛乳の量は、私にとっては、5日分である。
衝撃である。

だからどうしたと思うが、これは結構大切なのである。
前回の「無知の知」につながる。
要は「常識」こそが「無知の知」を阻む敵である。
「そんなわけない」という思いは、それ以上の領域にいかない。
自分の中で「異常」という扱いになり、ジ・エンドである。

人が単なる物や障害物に見える。
そんなわけない。

人が本気で嫌がっていることに全く気付けない。
そんなわけない。

文字が歪んだり踊ったりして見える。
そんなわけない。

周囲の雑音すべてが完璧に耳に入ってしまう。
そんなわけない。

じっとしていると、身体の中で虫が動いているような感じがする。
そんなわけない。

どれも、普通の感覚だと、そんなわけない。
しかし、そういう感覚の人も結構いる。
子どもにも大人にもいる。

そこを理解しないと「異常」という扱いになる。
もし理解していれば「そういうこともあるよね」と思い、対応が変わる。
「それぐらいは普通」「あり得る話だ」と思えば、対応がかなり変わる。

様々な子どもを相手にする教師にとっては、知識がかなり大切である。
教師の無知は、罪ですらある。
無知による対応は、二次障害を引き起こす可能性もある。

牛乳の話から、最後は真面目な話になった。
要は「常識」を疑うこと。
学校にはとかく様々な「常識」があるので、疑ってみることをおすすめする。

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