今回はものの見方、考え方に関わる、少しだけ哲学的な話。
最近、よく考える、「部分最適」と「全体最適」について。
これ自体は、経済学の用語であるという。
両方の意味は文字通り。
部分最適とは、ある部分(部門・部署・小集団等)にとって最適な状態を指す。
全体最適とは、その部分が属すより大きな単位である「全体」にとっての最適な状態を指す。
つまり、本来は全体最適≧部分最適のはずである。
しかし実際は、全体最適<部分最適という行動をとってしまう。
どういうことか。
例を挙げる。
会社全体の利益より、所属部署の利益優先。
所属部署の利益より、自分自身の利益優先。
つまり、会社全体の成果より、自分の部署が成果を上げることに目が向く。
もっというと、自分だけが評価されたり得すること。
または楽すること。
自分さえよければいい。
意識しないと、ここが優先されていく。
文章にするとえげつない感じがするが、実際はあらゆることが、無意識にそうなる。
大きな単位でいえば、自分が所属する家族という小集団は、国家という大集団に属する。
しかし個人の行動の優先順位で考えれば、国家<家庭という感覚だろう。
当たり前である。
どんなに国が潤っていても、自分の家族をみれば生活がぎりぎりという状態では、国のことより家族のこと優先である。
(例え日本国内であっても、貧困地域の子どもたちの暮らしは壮絶である。その状態では、自身の暮らし最優先に決まっている。)
ただし戦争のように、国家が倒れることで家族の生命が危うくなるということになれば、行動優先順位が変わる。
上位集団が崩壊すれば、下位集団も自分も不利益を被るからである。
今自分が頑張らないと会社が倒産するとなれば、家族サービスなんてそっちのけで、何をおいても仕事に全力を注ぐ。
それはいうなれば、危機的状況であり、非常事態である。
逆にいうと、人は自分の所属している上位集団自体がとりあえず安定している場合、より小さな単位(部分最適)を優先すると考える。
一方で上位集団が存亡の危機となれば、上位集団の存続(全体最適)に力を注ぐ。
こう考えると、国のことより、今の個人の生活を考えてしまうのは、自然である。
今の時代に、自分が生まれる以前の、自分と直接関わりのない、原爆や戦争のことから関心が遠ざかってしまうのも、自然である。
「平和」に暮らしているから、つい個人の幸福のことばかり考えてしまうのが自然である。
我が家が平和だ、今の私の生活が豊かで幸せだ、というのは、そうかもしれない。
しかし、その平和がタダで自然に手に入った訳ではないというのは、どこかで考える必要がある。
歴史の中で犠牲になった、多くの方々の命に思いをはせる時があってもいい。
そもそも、今この国は本当に平和だといえるのか。
苦しんでいる人々が国内に大量にいるのではないか。
国際的に見た時、既にぎりぎりの状態ではないのか。
本当の危機を迎えてから治療的対応に追われる前に、予防的対応に力を入れるべきである。
8月のこの時期、国の平和という全体最適について考えてみるのは、最終的に個人という部分最適にもつながると思う次第である。
2018年8月13日月曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿