木更津技法研での学び。
仮言命法と定言命法という言葉を初めて知った。
ググってもらう方が早いかもしれないが、一応説明する。
仮言命法とは、条件付きで命じる方法である。
○○すれば△△なことになるよ。
だからやろう、という伝え方。
良くいうと、行為の目的を予め伝えて行動を促す方法。
悪くいうと、エサや脅しを用いる方法である。
定言命法とは、無条件で命じる方法である。
有無を言わさぬ命令である。
良くいうと、信頼できる相手の言うことを素直にきくこと。
悪くいうと、絶対的権威への無思考による服従である。
これは、カント哲学・倫理学の真髄であるという。
さて、考え議論する道徳は、当然前者に偏る。
後者の定言命法には、考える余地も議論の余地もない。
現行の道徳科の教科書を見ると、全てこちらである。
ならぬものはならぬのです、という教えは、後者である。
「親父の小言」も、後者である。
さて、どちらが今の時代に欠けているのか。
これは圧倒的に、後者である。
行為の理由を教えるのは大切である。
ダメなことがなぜダメか、知ることもいい。
しかし、エサで釣って動かすというのは、教育の本質からは外れる。
野口芳宏先生は、童話の「金の斧」の話を例に挙げられた。
正直に言えば、金の斧が手に入りますよ、という話である。
これは、エサでつっているともいえる。
道徳の本質的には、正直に言うことは大切だ、ということだけなはずである。
なぜこういうことになるのか。
そもそも、童話とは道徳的には出来ていないのである。
童話作家に、そんな義務もない。
勝手に教材として用いているだけである。
(国語の文学教材も、授業で登場人物の気持ちを聞きまくるから、道徳の教材になってしまう。)
浦島太郎はそのいい例である。
(昔話なので、終わり方にも諸説あり。)
善行に対し、最終的に仇のような形で返ってくる。
それは、物語だから、それでいいのである。
要は、道徳の物語教材でやると、仮言命法に成らざるを得ない。
いいことあるから善行せい、ということになる。
道徳とは、より良く生きる道である。
その道の未経験者には、考えさせてわかるところと、わからないところがある。
本質的には、未経験者にそこを判断する物差しが与えられればよい。
その価値観の物差しを押し付けないでもてるようにせよ、という通達である。
ここが難しいのである。
最初の物差しが、各家庭に任されている。
本来共通にあるはずの「常識」が、個別化されている。
定言命法が機能しない所以である。
「ならぬものはならぬのです」
と言い切るのが難しい、多様な価値観の時代。
道徳を教える難しさが、この辺りにありそうである。
道徳について、もう少し考えていきたい。
2018年8月19日日曜日
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