最近何かの本で読んだ、Googleで人事の責任者を務めるラズロ・ボック氏の話。
Google社の採用にあたって最も重要な要素が「知的謙遜」だという。
要は、このメルマガでも何度も話題にしている、ソクラテスの「無知の知」である。
「自分は知らないことだらけだと知っている」という姿勢である。
教師の仕事に関しても、ここが非常に重要である。
何年やっても、ほとんど知らないことだらけである。
世の中の様々な教育手法のすべてなど、知る由もない。
国語一つ、体育一つとっても、教え方が様々にある。
「自分は〇〇について知っている」などとは、多分一生いえない世界である。
中学校の教師は、年間を通して教科を専門的に教えられるので、そこに特化して勉強できる。
部活動に関しても同様で、とにかく対象を絞って専念しやすい。
では、小学校の教師はどうか。
国語が専門であっても、算数も図工も体育も道徳も教えなくてはいけない。
それが毎日である。
国語や体育だけ勉強している訳にはいかないのが実情である。
すべての小学校の学級担任において、費用対効果が最も高く、有用なものは何か。
「知っているつもり」になって、実はよくわかっていないことは何か。
それは、学級経営についての知識と技能である。
素晴らしい理論で国語や算数、体育等に特化した授業をやろうとしても、なかなかうまくいかない。
以前ならうまくいった授業、誰かがうまくやれる授業でも、うまくいかないことがある。
それは、授業以前のベースとしての学級経営に根本的な原因がある。
植物で例えるなら、土作りである。
スポーツで例えるなら、基礎体力である。
学力で例えるなら、聞く力と読む力である。
人間に例えるなら、健全な考え方と、健康な身体である。
ベースが全てである。
ある子どもで、算数が苦手だとする。
それをどうにかしようと必死に算数の教え方を勉強しても、全然うまくいかない。
なぜか。
それは、ベースとなる家庭がめちゃくちゃで自暴自棄になっているからかもしれない。
学力以前にLDやADHD等の特別な事情を抱えている可能性もある。
学習のベースとなる前提ができていないと、教え方以前である。
授業のベースは、学級経営である。
授業づくりと学級経営はどっちが先か、とか、両輪だ、とか様々な論がある。
何においても、学級経営が先、というのが実感である。
学級経営は、知識がないとできない。
しかし実際は、理論も何もなくても、何となくできたような感じになってしまう。
しかし、それは「運」に任せたものであり、かなり不確実である。
また、単に理想型を知らず、いつも通りのもので「できた」と思ってしまっている可能性もある。
同じものを毎回再現できるのが、技能である。
各人の学級経営における技能は研究され、知識と技術として伝えられる形にまとめられていることもある。
一生、学ぶことがある。
日々アップデートされる以上「これで完了」はない。
学級経営に対しても、知的謙遜をもつことが肝要である。
2018年8月5日日曜日
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