今年度、件の「金の斧」を用いて一年生の道徳科の授業を行った。
教科書教材として掲載されているのである。
どんな反応を示すか、子どものつぶやきに注意しながらやってみた。
さて、お決まりの次の問いかけ。
「きこりはなぜ、金の斧を受け取らなかったのでしょう。」
期待する答えは
「自分のものではないから」
「嘘をついてはいけないから」
辺りである。
要は、正直に、嘘をつかないのが大切ということである。
実際やってみると、なかなか面白い答えがたくさん出た。
一番最初に出たつぶやきが
「自分のじゃないとダメだから。」
こういう時は拙著『切り返しの技術』にもある定番フレーズ
「なるほど。もっと詳しく話して。」
で突っ込む。
「だって、金の斧じゃ、(木が)切れない」
「自分の斧じゃないと嫌」
なるほど。
そうきたか。
あくまで、「きこり」という仕事に着目している訳である。
「ダメ」の内実が、仕事にならない、やりにくいということを指していたようである。
仕事道具としての斧なら、金より鉄製がいいに決まっている。
斧は、きこりにとって、装飾品や売り物ではないのである。
戦国武将にとっての刀、アスリートにとっての靴、書家にとっての筆や硯である。
しかも、道具には愛着がある。
例えば自分のお気に入りのボールペンなどを無くすと、(買えば済むのに)かなりがっかりするはずである。
同じように売っているもののでも、自分が使っているものは、文字通り「特別」であり、他とは別物である。
同じ鉛筆一本でも、大好きなおばあちゃんが何かの記念に買ってくれたものは特別。
それをもしいたずらで折られたりしたら、弁償では済まされない。
だから、低学年の頃から人の物は勝手に触らないと徹底して教える。
併せて、大事な物や高価な物、他人の余計な興味をひきそうな物は持ってこないと教える。
たくさんの人が集まる学校に持ってくる物には、ある程度「なくす」「壊れる」前提が必要である。
全ての持ち物に名前を書くのも、そのためである。
(学校の「落とし物箱」の中に無残に放置された大量の物たちが、それを雄弁に物語る。)
特に仕事道具は実用品であり、愛着のあるものなのである。
使い込むことで、手にしっくり馴染むものである。
つまり、金ピカどうこうではなく、自分の大事な鉄の斧をもってきてくれということである。
本当にきこりは金の斧と銀の斧を欲していたかも謎である。
「別にいらんなぁ…」と思ったかもしれない。
もちろん、一年生は、即座にそんな深く考えはしていないだろう。
シンプルに
「自分の大事なものを取り戻したい」
という思いを言葉にしただけである。
だから本来、斧を返してもらえば済む話である。
シンプルに「拾ってくれてありがとう」「どういたしまして」でおわりである。
人間として当たり前のやりとりなのである。
ここの「神対応」なご褒美は、実際の世界では余計なのである。
しかし本来、「お話」は道徳的でなくても良いので、これはこれでいいのである。
教育における「ご褒美」の取り扱いについて、もう少し詳しく考えていく。
2018年8月25日土曜日
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