ここ3回、戦争と平和をテーマに書いてきた。
実際、一教師に、そんなに大規模なことはできない。
やれることは、教室程度の小規模集団からのミクロな発信である。
要は、自分をどこにおくかで、「全体最適」の規模が決まる。
かなり小さい単位だと、家庭。
最小単位は無論「自分」である。
「今、自分さえよければいい」という部分最適。
無意識に暮らしていると、全てがここになりがちである。
ここで、学級担任、あるいは家庭として考えるべきことがある。
「自分の子どもさえよければいい」という考えである。
自分自身を子どもと同化してしまっている。
これは、厳に慎むべき態度であると同時に、多くやってしまいがちな過ちである。
ここについて、興味深いエピソードを読んだ。
次の本からである。
『歴史人物に学ぶリーダーの条件』 童門冬二著 だいわ文庫(2009)
幕末の時代に、千葉県の北総地帯の礎を築いた、大原幽学という偉人の話が載っている。
当時のこの地方の村人には「自分さえよければいい」という気風が完全に染みついていたという。
そのせいで協力体制がとれず、村全体は貧しく、人々の心も荒んでいた。
そこで、幽学は何を提案したか。
「各家庭の子どもの交換保育」である。
何と、各家庭の子どもを交換して育てさせろというのである。
A、B、C、三人がいるとしたら、それぞれの子どもを
Aの家にBの子
Bの家にCの子
Cの家にAの子
というように、交換して育てさせようとしたのである。
名主である遠藤伊兵衛という人物が、幽学に代わって村人に提案した。
当然反対も出たが、やってみようということで、提案は実行された。
そして、すぐに混乱が起きた。
まず子ども自身が帰りたいと騒ぐ。
預かる側も、特に村で評判の「悪ガキ」担当となった家は、すぐにでも追い出したくなる。
村人同士で「この家の子はいい」「この家の子は悪い」という、レッテル貼りが行われていた訳である。
あまりの混乱ぶりに閉口し、伊兵衛は「やはりやめよう」と言ったが、幽学は信じて続けろという。
やがて、変化が起きる。
子どもたちは、自分の家のようにわがままが通用しないとわかると、実の父母のことを考えるようになった。
それぞれの親も
「うちの子が辛い思いをしたり、いじめられたりしていないか」
と心配した。
すると、今、目の前にいる他人の家の子どもに心配が向き始めた。
結局、誰の子でも、同じ人間の子どもであり、愛さなければならないとわかり始めた。
その頃を見計らって、元の家庭に戻すと、親も子もすっかり性格が変わり、村全体が他者のことを考えるようになったという。
つまり幽学は、村人の個人的な部分最適を求める姿勢を、体験によって全体最適を考える姿勢に矯正した訳である。
それが村の協力体制を作りだし、結果的に村人それぞれの幸せにもつながっていったという話である。
結局、自分や自分の子ども(あるいは担任している子ども)だけがよければいいという考えは、破滅の道である。
自分以外の他をも大切にすることが、結果的に自分の幸せにつながる。
考えればすぐわかるが、我が子が通うクラスの他の子どもの大部分が不幸なら、我が子も不幸になるに決まっている。
学級担任なら、自分のクラスだけが良くて周りはだめだという考えがあれば、それは子どもにも伝染する。
人を見下したり、自分の所属以外の周りに無関心な子が育つ訳で、結果的に、自分のクラスの子どもも不幸である。
そして、逆もまた然りである。
だから、学級づくりでは子ども同士のつながりをつくるのが、大前提として大切なのである。
学級経営や家庭教育を考える上での一助になればと思い、紹介してみた。
2018年8月17日金曜日
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分かりやすかったです。
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