今日は、長崎の原爆記念日である。
先日の8月6日広島の原爆記念日にメルマガで書いた記事を載せる。
現在生きている人の中で、実際に原爆を体験した人たちが、かなりの高齢である。
73年前の出来事なのだから、当然である。
実際の体験者が少なくなり、生の声を上げられなくなってくる。
そうした中で、記念式典が催される。
記念式典は、何のためにやるのか。
広島市のHPによれば
原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するため
とある。
慰霊と平和のためである。
思想どうこうではなく、世界平和のためである。
だから、アメリカはもちろん、世界中から、要人だけでなく、一般の方々も集まる。
広島の原爆ドームは、ドイツのアウシュビッツ収容所と並んで、負の世界遺産の代表的なものである。
負の世界遺産というのは、基本的にすべて世界の平和を目的としている。
ダメなことを忘れないためである。
人間は、失敗からしか学べない。
例えば公害のような環境問題は、手に負えないレベルになるまで気が付かない。
自然の自浄能力の限界値を迎えるまで気が付かない。
「やっぱり」困ったことになって、やっぱりダメだとわかり、真面目に考え直す。
つまり、ダメなこと、失敗、痛みは、繰り返さないために、次の世代につなぐ必要がある。
嫌でも、目を逸らしたり、忘れたふりをしていると、またもっと痛い目に遭うからである。
それが、歴史の学習の本当の意義でもある。
失敗の歴史を知る必要があるのは、それを実際には体験していない人々である。
また、こちらが痛い思いをさせられたという場合も、忘れていないことを相手に示す必要がある。
これも、また繰り返させないためである。
もしも日本人が他国の人と話す時に
「原爆とか、昔のことだし、よく知らない。
今は平和だからいいと思う。」
というようになったら、これはかなり問題である。
他国の人々からも見下されること必至である。
ここの辺り、もう少し真剣に考え直す方がいいと思う。
小学校六年生でも、歴史で戦国時代とかにやたら力を入れるより、近現代史にもっと力を入れるべきである。
(教える順番も問題である。
後半に駆け足でやるから、大事なことがまともに教えられてない面もあるだろう。)
8月は、夏休み中であり、この最もタイミングが合う時期に、教師が直接教えることはできない。
戦争に関する話題を、家庭でもすることが大切である。
2018年8月9日木曜日
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