2018年10月10日水曜日

「メルカリ宿題代行業禁止」をどう見るか

夏休み明けに書いた記事。

「メルカリ」の宿題代行に対し、文科省から出品禁止の依頼が出て、大手3社が承諾した。
なるべくしてなった感である。

宿題の代行についての考えは、以前もメルマガやブログ、ラジオ等で述べてきた。
存在意義や価値の捉え方の問題である。

そして宿題をどう「処理」するかは、間違いなく世間の関心事である。

多くの需要があるのだから、「代行業」を出品すれば売れるに決まっている。
代行業が成立する土台は、それが購入者にとって「面倒」あるいは「不可能」な場合である。
つまり、高額でも売れる。

高額で売れるとなれば、商品を大量生産して売ろうとする業者が出る。
そこに倫理や道徳、本来の存在価値といった一切は関係ない。
すべては、儲かるかどうかである。

しかし文科省及び学校関係者から見て、宿題代行は望ましくない。
(原理的には親がやったり、優秀な友達にやってもらったりするのと変わらないのだが、お金が絡むことが問題である。)

倫理や道徳で守られない場合、どうするか。

法で縛るという手段になる。
交通ルール等と同じである。

禁止令を出す。
ルールをくぐり抜ける者が出る、あるいは守られない。
また新たな禁止令を出す、あるいは厳罰化する。
この繰り返しである。
つまり、この方策は、一時的にしのげても、根本的解決につながらないことが多い。

夏休みの宿題が、一部の家庭教育から見て、厄介者になっているということである。
そもそも本来は、意義のあることだから、広まったはずである。

一部の、というのが大切である。
価値がある場合もたくさんある。
しかし、一昔前に比べ、家庭教育の方針や環境が全く違う。
ドリルが必要な家庭や地域もあれば、不要なところもある。
自由研究しかり、読書感想文や工作しかり。

宿題そのものに善悪はないのである。
しかし、宿題の形、在り方が、50年前と変わっていないのではないか。
要る場合もあれば、要らない場合もあるのではないか。
内容そのものの見直しの時期にきている。

宿題に限ったことではない。
教育の在り方そのものが、世間から変革を求められている。

今、何が必要で何が不要なのか。
働き方改革が叫ばれる昨今、自分の仕事内容そのものを見直す時である。

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