仕事における「捨てる」の大切さついて。
教育実習生の指導案を読む。
授業の中では、子どもに教えたいことがたくさんある。
しかし、それらすべてを教えようとすると、何も身につかない。
捨てさせる。
絞らせる。
何かを捨てるというのは、大切な何かを選ぶということと同義である。
これは、私が言い出したことではない。
森信三先生の『修身教授録』にも、捨てる大切さが書いてある。
成し遂げたいこと以外を捨て去るということが肝要である。
野口芳宏先生も、同じことを仰っている。
国語や道徳の模擬授業を見ていただく際、
「どうでもいいことをいちいち聞かない」
「枝葉末節にこだわるから、本質である幹の部分が教えられなくなる」
ということを何度も指導していただいた。
仕事に関しても授業に関しても、同じである。
枝葉の部分が要らないとは言わない。
全く役に立たないとも言わない。
しかしながら、そこばかりに目を向けていては、本質が疎かになるということである。
授業で「ねらい」が大切というのは、そういうことである。
的が二つ以上あると、どちらにも当たらないのである。
例えば、算数の授業で計算を扱う時。
まずはやり方を教えたいのか。
はたまた、既存の知識を用いて深く考えさせたいのか。
大量に問題をこなしていく中で体感的に掴ませたいのか。
さらには、それらの方法を通して、形成学力としては何を獲得させたいのか。
それらが明確に定まれば、目的のものは手に入ったも同然である。
代わりに、他は捨て去らなければならない。
一番大切なもので、両手がもうふさがるからである。
一つを選ぶというのは、その他を捨て去ることである。
幼い子どもが、たくさんのおもちゃをいっぺんに運ぶ様を想像すればわかる。
いっぺんに運ぼうとして、脇からぼろぼろこぼれ落ちる。
それを拾おうとしてかがみこみ、持ってるものを全部まっ逆さま。
(大抵、これはビーズなどバラバラに散らばるもので、慌てる母親の風景もセットである。)
欲張ると、一気に手に入ったようで、結局何も残らなくなる。
うまくやってるつもりでも、駄目である。
何でもステップになっていて、一足とびとはいかないものである。
今日一日で何をねらうか。
日々自問して、少しでも今よりましに成長していきたい。
2018年10月20日土曜日
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