先日の研修旅行中、山口県の「鍵山記念館」というところで、読書会を行った。
テキストは森信三著『修身教授録』の第19講「松陰先生の片鱗」である。
この中で「天真」という言葉が出てきて、これが心に引っかかった。
意味を調べてみた。
広辞苑によると
【天真】
天然自然なままで、偽りや飾り気のないさま。
とある。
『修身教授録』の文中には次のように書かれている。
=========
(引用開始)
そして人間各自、その心の底には、それぞれ一箇の「天真」を宿していることが分かってくるのであります。
天真に二、三はなく、万人すべて等しいのでありますが、ただその本性の開発の程度いかんによって、
そこにそれぞれ独自の趣を発揮してくるのであります。
それ故ひとたびこの点がはっきりしたならば、いかなる者にも穏やかに優しく、
かつていねいに対せずにはいられなくなるはずです。
(引用終了)
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それぞれの「天真」を引き出す。
それさえできれば、教育としては、成功であると思われる。
それぞれ個別の教育が必要な所以である。
それぞれに「天真」があるという前提に立つ。
さすれば、誰に対しても、ていねいに接せざるを得ないはずということ。
立場自体は上であっても、相手を見下すということをしないということになる。
こう考えると、「叱る」ということのやり方自体を考える必要が出てくる。
子どもと共に歩む者としては、叱る際に、自省の念が伴う必要がある。
つまりは、大声で怒鳴るのではなく、自身にも諭すように、低く柔らかく、わかるように伝えるのが理想といえる。
東洋思想研究者の安岡正篤によれば、吉田松陰の話し方を
「平常の音声なども極めて低く柔かく、一体に蒲柳(ほりゅう)の質であった」
と表現している。
(『日本精神の研究』安岡正篤著 致知出版社より)
この「蒲柳の質」をどうにかして身に付けたい。
どうにも「剛」である。
しかしながら、目指す価値がある。
ちなみに、私の友人の教師で「こんにゃくファイター」というあだ名をもった人がいる。
(「もった人がいる」とか他人事のように言っているが、勝手にそんなあだ名を付けたのは私である。)
この人は、一体に蒲柳の質である。
管理職も認める、謝罪のプロであり、クレーム対応のプロであった。
志や向上心というものはあまり感じられなかったが、人間関係のクッション的役割が非常にうまい。
どこに行っても、重宝する人材である。
もしかしたら、身の回りに自分の「先生」がいるかもしれない。
「天真」を引き出すための、自分の在り方を問う。
我が身を振り返り、反省しきりである。
2018年10月5日金曜日
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