自分の教育実習生時代を思い起こしての気付き。
教える・教わるということについて。
今はもう少ないのかもしれないが、部活動といえば「先輩が威張る」というのが定番であった。
実は1年か2年早く入っただけの「入社2年目」ぐらいなのだが、ものすごい「えばりん坊」がいる。
アルバイト、あるいは就職先でも同じような生態が見られる。
なぜこんなに威張れるのか。
相手より色々と「知っている」からである。
「知らない」という相手に対し、有利な立場に立てる。
「そんなことも知らないのか」と馬鹿に出来るのである。
相手は新しく入ってきたのだから、部活動内や職場のローカルルールなぞ知らなくて当たり前である。
それをいちいち指摘し、ねちねちいじめる。
どんなに優秀な新人相手であっても同様である。
むしろ、自分より能力の高いと思われる(あるいは生意気な)後輩などには、本能的に脅威を感じるため、余計にいじめたりする。
これは全国的に見られる光景のようだから、人間の本能的な行為といえる。
例えばゴリラの「マウンティング」のように、あらゆる動物は自分の立場が上であることを示す。
つまり本能のままに従えば、新人に威張るようになるということである。
もし何となく他人に威張るようになっていたら、理性が本能に負けている証拠であると考えてよい。
本当に人格的に優れた人は、誰に対しても、決して威張らない。
普通にしていると、こちらより相当「高い」位置にいるので、腰を低くしてくれる。
小さな子どもに接する時には大人がしゃがみこむように、高さを調節して接してくれる。
そういう、ものすごく親切で温かい先輩もいる。
新人の失敗にも寛容で、的確なアドバイスをくれる、面倒見のいい人である。
こういう人が新人教育係をやってくれると、ものすごく伸びる。
人に教える時、つい「この人はいい」「この人は扱いにくい」と分けがちである。
誰に対しても温かい人は、そういう対応をしない。
子どもに対しても同じで、「いい子」「悪い子」というような区別はしない。
それぞれの良さに着目して、引き出してくれる。
「教育」を意味する「education」の語源が「引き出す」であることが思い起こされる。
教育実習生を見ていると、自分の実習生時代を思い出す。
実習簿を見返すと、顔から火が出そうである。
字のまずさはもとより、書いている内容がまたひどい。
勘違い&生意気100%である。
かなり寛容に見ていただいていたことが推察される。
あの場でもしダメな点を列挙されて叩き潰されていたら、今はなかったかもしれない。
良い面を見てもらい、引き出してもらえたということである。
(その後千葉県で採用していただけたことにも、改めて感謝である。)
人間は、概して個性的である。
良い悪いは決められない。
教育させてもらう側は、ただ自分が現在知っていることを、教えることができるのみである。
つまりは、教えるという行為は、相手を変えることではなく、自分自身が勉強させていただいているだけと言える。
何かを教えた瞬間に、相手からの反応・フィードバックが返ってくる。
反応に応じて、また伝える。
この繰り返しである。
教えるという行為は、意識すれば相手との対話にもなる。
自分にとっての授業、自分にとっての教育実習なのだと思って、主体的・対話的に取り組みたい。
2018年10月7日日曜日
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