2018年10月19日金曜日

謙虚と感謝、幸福感はセット

前回の権利と恩恵の話に関連して、謙虚ということについて。

権利を当然と思わず、恩恵と捉えるということは、結局「謙虚」の一言に集約される。

謙虚というのは、他にへり下ることではない。
むしろその本質は、逆である。

謙虚という状態では、自分の人間的価値を認めている。
だから、同時に相手の人間的価値を認められる。
結果、自分と同じように相手を大切にし、相手の話もよく聞けるということになる。
自分の存在価値を認めているから、相手にも偉ぶらなくていいという状態である。

謙虚の逆の状態が「傲慢」である。
自分の存在価値を認められず、他にアピールするのに必死な状態である。
だから私を誰よりも尊重してくれないと、その怒りと恨みが攻撃行為に変換される。

不平不満は、謙虚でなく傲慢だから出る。
人間だから、不平不満は当然出る。
しかしそれも「謙虚」という姿勢・観を通して見ることができたならば、消し去ることもできる。

卑近な例を挙げる。
乗る予定の電車が、一時間以上遅れて出発するとする。
そのお陰で、予定に間に合わない。
不満を抱く。
「何で遅れるんだよ。」

この不満はどこから来るのか。
「電車はいつも定刻通りの運行」という恩恵からである。
これは、世界基準で見ても、脅威的なことである。
毎日定刻で運行される国自体が珍しい。
世界基準では、分単位はおろか、時間単位で遅れることなどざらである。
日本は「秒単位」の正確さである。
その恩恵には当たり前すぎて気付けず、「権利」化している。

謙虚に見れば、この一事態を見るだけでも、普段いかに鉄道会社の人のお世話になっているかがわかる。
傲慢に見れば、「金を払っているんだから当然」という姿勢になる。

教育の恩恵も同様。
治安の恩恵も同様。
環境の恩恵も同様。
平和の恩恵も同様。
あらゆる「〇〇の自由」に関する恩恵も同様。

とにかく、世の中は他人の恩恵で溢れている。
それら全てが「当たり前」に見えるので、「権利」と勘違いして見えている。
これは、本当に恐ろしいことである。

学校とは、子どもにここを教える機関である。
単に教科内容自体を教えるなら、機械での学習も可能である。
しかし、そういう人間としての姿勢といったものの教育は、人間にしかできない。
「人は人によって人となる」という、カントの言葉通りである。

挨拶が大切、とはよく言うが、突き詰めるとここである。
謙虚だから挨拶をするのである。
挨拶は、相手を尊重する姿勢であり、自分が今出会った相手への御礼である。
(私は拙著の中で「迷惑をかけるであろう相手への先取りの謝罪」の意も込めていると書いた。)

相手を認めなければ、挨拶をする必要などない。
だから、子どもには「挨拶は気分に関係なく必ずするもの」と教えるのである。
子どもには、幸せになって欲しいからである。
謙虚に誰からも学んで、愛されて、大きくなって欲しいからである。

自分を大切にすることと、相手を大切にすること
自分のためにがんばることと、社会や集団の役に立とうとがんばること。
どちらも本質的には同じである。
子どもには、逆をいかせない。

謙虚かどうかとは、自己主張が強いとか弱いとかそういう話ではない。
恩恵に感謝できる能力そのものである。
つまりは、幸福を感じる能力そのものである。

子どもへの教育では、謙虚に学び、他に感謝できる感覚を育む。
決して、将来自己の権利の主張ばかり叫ぶ人間を育てることのないようにしたい。

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