働き方改革と学級づくりについて。
労働時間の基準といえば、約8時間。
この基準は、法による。
それが「普通」ということになると、何事もそこを基準に考える。
もしこれが4時間基準だったら、8時間はとんでもない過剰労働に感じる。
逆に16時間が基準だったら、12時間労働でも楽々すぎる。
基準をもとに、「権利」を考えるからである。
これは「私」の権利である。
さて、なぜ「私」にこんな権利が与えられているのか。
私の努力によって獲得したものなのか。
否。
私の関与しないところで決まった。
この日本という国の社会から与えられたのである。
つまりは、恩恵である。
「恩恵は権利に変わる」という話を紹介したことがある。
奉仕作業にお疲れ様の意を込めて飲み物を出して、翌年は出さなかったら、苦情が出たというあれである。
「自分は優遇されて当然の存在だ」と思うと、そうされなかった時に恨みがつのる。
逆に「させていただいている」と思うと、何をしても残るのは有り難みだけになる。
クレームというのは、この優遇されなかったことへの抗議である。
私の当然の権利を認めろという訴えである。
この「当然の権利」の正体というのが、実は恩恵である。
恩恵だと思えば不満も出ないのだが、権利だと思うと不満になる。
つまりは、事象そのものに善悪も意味もなく、捉え方の観が全てである。
学級の例で見てみる。
例えば、指導にものすごく手のかかると評判の子ども。
この子どもを担任することになったとする。
これを「平等」の名のもとの「権利」で考えると、はずれくじを引いたように考えることになる。
他の教師と比べて、自分の学級だけが、大変な気がするからである。
(実は勘違いであるが、この考え方が基本だとそこに気付けない。)
これを恩恵と考えると、当然の責務となる。
ここをがんばるからこそ、私ごときに給与がいただけると考えられる。
むしろ、誰でもできることなら、給与も相当に低くなるはずである。
何のための教員免許なのかもわからなくなる。
子どもや学生の側にもいえる。
自分は、当然優遇される存在だと思っている子どもや学生。
学校にいくのなんか当然の権利で、有り難くもなんともないという子どもや学生。
自分は、教わりに来ているんだと思っている子どもや学生。
学校に行けるのは必然ではなく、自分がここに生まれた偶然によるものと知っている子どもや学生。
学ぶ姿勢が180度変わる。
どちらも「観」によるものである。
学級づくりにもこれは適用できる。
どれぐらいを「当たり前」として与えるか。
これは、躾やルールにつながる。
基準値を甘く設定すると、後で引き上げるのは相当に困難が生じるのが容易に想像できる。
自覚した「権利」に対する不満が生じやすくなる。
だから、甘やかされて育った子どもは、社会では必然的に不幸を感じやすくなる。
(決して「甘えて」ではない。甘やかされて、である。)
働き方の改善を考える時、本質的な決め手は「観」である。
これを単なる精神論と片付けない。
捉え方こそが、自らの世界のすべてである。
2018年10月18日木曜日
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