2018年10月18日木曜日

働くことは権利か恩恵か

働き方改革と学級づくりについて。

労働時間の基準といえば、約8時間。
この基準は、法による。

それが「普通」ということになると、何事もそこを基準に考える。
もしこれが4時間基準だったら、8時間はとんでもない過剰労働に感じる。
逆に16時間が基準だったら、12時間労働でも楽々すぎる。

基準をもとに、「権利」を考えるからである。
これは「私」の権利である。

さて、なぜ「私」にこんな権利が与えられているのか。
私の努力によって獲得したものなのか。
否。
私の関与しないところで決まった。
この日本という国の社会から与えられたのである。
つまりは、恩恵である。

「恩恵は権利に変わる」という話を紹介したことがある。
奉仕作業にお疲れ様の意を込めて飲み物を出して、翌年は出さなかったら、苦情が出たというあれである。

「自分は優遇されて当然の存在だ」と思うと、そうされなかった時に恨みがつのる。
逆に「させていただいている」と思うと、何をしても残るのは有り難みだけになる。

クレームというのは、この優遇されなかったことへの抗議である。
私の当然の権利を認めろという訴えである。

この「当然の権利」の正体というのが、実は恩恵である。
恩恵だと思えば不満も出ないのだが、権利だと思うと不満になる。
つまりは、事象そのものに善悪も意味もなく、捉え方の観が全てである。

学級の例で見てみる。
例えば、指導にものすごく手のかかると評判の子ども。
この子どもを担任することになったとする。

これを「平等」の名のもとの「権利」で考えると、はずれくじを引いたように考えることになる。
他の教師と比べて、自分の学級だけが、大変な気がするからである。
(実は勘違いであるが、この考え方が基本だとそこに気付けない。)

これを恩恵と考えると、当然の責務となる。
ここをがんばるからこそ、私ごときに給与がいただけると考えられる。
むしろ、誰でもできることなら、給与も相当に低くなるはずである。
何のための教員免許なのかもわからなくなる。

子どもや学生の側にもいえる。

自分は、当然優遇される存在だと思っている子どもや学生。
学校にいくのなんか当然の権利で、有り難くもなんともないという子どもや学生。

自分は、教わりに来ているんだと思っている子どもや学生。
学校に行けるのは必然ではなく、自分がここに生まれた偶然によるものと知っている子どもや学生。

学ぶ姿勢が180度変わる。
どちらも「観」によるものである。

学級づくりにもこれは適用できる。
どれぐらいを「当たり前」として与えるか。
これは、躾やルールにつながる。

基準値を甘く設定すると、後で引き上げるのは相当に困難が生じるのが容易に想像できる。
自覚した「権利」に対する不満が生じやすくなる。
だから、甘やかされて育った子どもは、社会では必然的に不幸を感じやすくなる。
(決して「甘えて」ではない。甘やかされて、である。)

働き方の改善を考える時、本質的な決め手は「観」である。
これを単なる精神論と片付けない。
捉え方こそが、自らの世界のすべてである。

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