教育実習を通しての学び。
実習期間が終了する時、実習生に振り返りをさせる。
当たり前だが、実習前と実習後では、認識が変わる。
まず「できること」が増える。
それ以上に「できないこと」が増える。
どういうことか。
つまりは、「できていないと認識すらしていなかった」という部分が見えるようになる。
一番分かりやすいのが、「全日実習」と呼ばれる一日担任体験。
朝の対応から帰りまでに、やるべきことが多数存在する。
細かい部分は、「見学者」として外から見ている時には決して見えない。
例えば、給食を片付けてやっと昼休みになったという時。
けんかが起きる。
ここで丁寧に話を聞いてあげたいと思うが、その直後に、誰それがケガをしたと子どもが報告に来る。
同時に、教室に電話がかかってくる。
連絡帳への返事も書かなくてはいけない。
その一方で、次の時間の授業の準備もしておかなくてはいけないことに気付く。
そんな焦りの中「先生、遊びに行く約束は?」と話しかけてくる子どもがいる。
誇張でも何でもなく、ご存知の通り学級担任にとっては割とよくある日常である。
これが高学年担任になると、同時に委員会だ行事だとやることがもっと多くなる。
ここで苦しまないように、自分自身の行動をマネジメントするのも仕事の一部である。
実習生ではこれらすべての体験はできないが、一部でも見えていない部分がわかる。
(実習生が最も不安に思う「保護者対応」の一切が実習では体験できないというのは、現在のシステムの欠陥であると思う。
教員養成でも「インターン制度」を取り入れられないものだろうか。)
そして、まだまだ見えていない部分だらけということも見えてくる。
「無知の知」である。
まずは「できたこと」の自覚が自信になる。
一方で「できていないこと」の自覚が成長の契機になる。
どちらも大切で、陰陽のバランスである。
実習生の振り返りとして述べたが、そのまま学級担任にも当てはまる。
「自分は大丈夫」と思っていたら、その実力はほぼ間違いなく下り坂を転げ落ちている状態である。
登る時にかかった時間よりも、落ちる時の方が数倍早いというのは自然の摂理である。
わかりやすく例を挙げる。
プロスポーツ選手で
「自分は他の人より上手いからもう練習はしない」
という人が存在し得ないのは誰でもわかる。
しかし、教育の現場において
「自分は若手よりも色々わかっているからもう勉強しない」
という人が存在し得ない、と言い切れるかどうかである。
改善の余地は常に無数にある。
常に学び続けることが仕事の一部である。
教育実習生を教える。
それは同時に、教育実習生に教わっているということである。
実習生以上に学ばなくてはいけない。
子どもに教える。
それは同時に、子どもに教わっているということである。
子ども以上に学ばなくてはいけない。
素直に学ぶ、謙虚に学ぶということの大切さを教わった教育実習だった。
2018年10月30日火曜日
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