先月の「素麺塾」(野口塾)での学び。
この素麺塾では、まず参観者同士の実践発表等の交流をする。
その後で流し素麺を楽しんで、俳句会、懇親会という流れである。
今回は、幼児教育に携わる方々の集まりで、私立幼稚園の経営者の方が多かった。
今回も自分は、裏方としてかまどの火の番をし、素麺を茹でていた。
そして仕事をしつつも、ちゃっかり中の話も聞かせてもらっていた。
その中で、ある方のこんな話が聞こえてきた。
「高性能な車には、高性能なブレーキが必要だ。
ブレーキに自信があれば、思い切り走れる。」
ここに、なるほどと思う気付きがあった。
思うに、ブレーキには、道徳教育が当てはまるだろう。
道徳の抜けた教育というのは、危ない。
スポーツ界がその最たるものだが、指導者が「勝ちさえすればいい」という思想でいると、ろくでもないことになる。
本物の強豪チームは、周囲への感謝をはじめとする道徳教育を、技能指導同様に大切にしていることが常である。
学力に関しても同様。
自分だけが賢くなって点数を取れればいいという思想は危ない。
どこかで必ず転落する。(そして誰にも助けてもらえなくなる。)
特にこれからの時代、仲間と助け合う「協働」の姿勢が大切である。
集団の問題を自分自身の問題と捉え、解決への手立てを講じられる人間が求められる。
これも、道徳教育である。
私が若い頃わかっていなかったので、一応注釈をつけておく。
「道徳教育」と「道徳科の授業」は、別物である。
道徳教育>道徳科 である。
道徳教育は、学校教育全体で行われるものである。
朝の支度の時間でも休み時間の過ごし方でも給食の時間でも掃除の時間でも、すべて道徳教育が入っている。
国語の授業でも算数の授業でも体育の授業でも道徳科の授業でも、すべて道徳教育が入っている。
例えば、体育の授業は、意図せずとも道徳教育が入りやすい。
器械運動の授業なら、自分ができたから自分だけ突き進むということはなく、大抵、周りの仲間に教える。
できたら一緒に喜ぶ。
これらの一連の流れは、そのまま道徳教育である。
ごく普通の光景である。
算数等でも、これを取り入れていることが多い。
自分ができて満足するのではなく、わからないでいる周りの仲間に教える。
そうすると、お互いの学力が高まる。
双方にメリットがある。
それを実感させれば、それも道徳教育である。
道徳科の授業は、もちろん道徳教育である。
他の教科と違い、道徳的な価値そのものが学習の中心に来る。
例えば算数の「角」の授業なら、その時間は分度器の正しい使い方を身に付けるのが学習の中心。
その学習過程で、当然道徳教育も行われるのだが、指導案に書く「ねらい」の中心はそこではない。
道徳で「走れメロス」を教材にする授業なら、その時間は「友情」「責任」「不撓不屈」等が学習の中心になる。
道徳的な価値が学習内容の中心にきて、かつその学習の過程においても、道徳教育が行われる。
(人の発言を馬鹿にしないとか、授業に真面目に参加するとか、姿勢を正して話を聞くとか、そういうこと全てである。)
話を戻す。
高性能なブレーキとは、道徳教育であると解釈する。
つまり、「自分が自分が」で行きすぎない、止められる力と捉えた。
アクセルは、学力等を含めた本人の能力そのもの。
どんどんスピードを出せるようにするい。
しかし、人や物にぶつかるようでは、いけない。
スピードがよく出る車ほど、高性能なブレーキ、安全装置が必要である。
スピードを出せるようにするほどに、ブレーキの性能も上げる必要がある。
何を教えるにも、ベースは道徳教育。
そんなことを考えながら、夏の暑い盛りに素麺を茹でていた次第である。
2018年9月21日金曜日
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