赤坂先生からの学級づくりの極意(裏)シリーズ。
今が多分どこも旬の「個人面談」の心構えについて。
なぜ(裏)かというと、懇親会中に得た学びだからである。
実は、懇親会の情報は、大抵質が高い。
全体に向けての外向きの飾りをする必要がなく、本音だからである。
曰く、個人面談は、そのまま面談だと思わないこと。
「個人〇〇」という、他のサービス業だと考えた方がよい。
そこに入る言葉は、自分の技量とねらいによって変える。
もし「カウンセリング」ができれば素晴らしい。
これにはなかなか技量がいる。
アドバイスではなく、相手の悩みへの傾聴に徹する必要がある。
共感の力も必要である。
「コンサルタント」はどうか。
これも難しい。
家庭教育の「経営」に対する助言、指導をし、方針を示してあげる。
もしもできるだけの専門性があるなら、やってもよい。
〇〇には、サービス系の接客業でもいいのである。
特に口ベタで話を聞く方が得意な人は、こちらの方がよい。
保護者は、わざわざ暑い中、時間を作って学校に出向き、会いに来てくれるのである。
いうなれば、時間的空間的コストをかけている。
そんな中で苦労してやってきて、説教されてはたまらない。
労いの言葉をかけるのは当然である。
「来て良かった」と思ってもらう方に全力を尽くす方がよい。
また、面談では喋りが得意でないといけないと思っている若手も多い。
これは大きな勘違いで、喋りの技術は、聞く技術に比べると、かなり少なめでよい。
学校での様子を、聞かれた分だけ答える必要はあるが、大抵は担任の喋りすぎである。
喋りたい気持ちを我慢できるかどうかの方が大切である。
(大抵「アドバイス」は求められない限り、上から目線に思われがちである。)
最後に、自分がここまで経験して感じている「禁じ手」を紹介しておく。
それは、学級での「ダメなところ」を逐一伝えることである。
大抵の親は、我が子の至らない点を知っている。
高学年になればなるほど、知っている。
(一年生の場合は、単に学校になじめているかの不安が大きいのかもしれない。)
善良な親は、「自分が至らないせいだ」と思っている。
そんな訳はなく、子どもは一人の人格をもち、育て方ですべてが決まる訳ではない。
立場を担任に置き換えてみればわかる。
学級の子どもに、不得意なことや、社会的に見て望ましくない何らかの性質があるとする。
しかし、それは本人の性質の一つであり、教育でどうにかなる面ではないかもしれない。
それを「すべて担任のせい」と思われてたらどうか。
保護者に、同僚に、管理職に、「どうにかできるでしょ」と言われたらどうか。
かなりやるせない感じである。
それぐらいの構えで、保護者との個人面談に臨んだ方がよい。
保護者と担任は、共通の目的をもった仲間である。
苦労を共にする仲間である。
個人面談は苦労を共に労い、場合によってはこれからの戦略を練る時間である。
間違っても、担任が保護者に言いたいことを言う時間ではない。
仲間意識をもって、個人面談を互いに気持ちの良い時間にしたい。
2018年9月10日月曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿