2018年9月30日日曜日

従う清々しさ

素麺塾での学びの続き。

朝早く来て、畳を敷いて拭いたり、道の落ち葉を掃いたりする。
気分は、お寺の小僧である。(実際、観音堂という場所である。)
木漏れ日の中、汗を少しかきながら掃除をすると、清々しい気分になった。

準備の段階で、休憩が入った。
麦茶とスイカをいただきながら、直接野口先生のお話を聞けた。

野口先生が「従う清々しさ」ということをお話されていた。
学ぶ姿勢にしても「自分を無にせよ」とのこと。

ここが、すとんと落ちた。

この日、寺の小僧のような仕事をさせてもらったのは、進んで来ているからである。
従いたくて従ったのである。
完全なる自分の自由意思である。
「道の落ち葉掃きとか地味だし暑いから嫌」とかは全くない。
道を掃いていると、気持ちが「無」になっていく感覚がある。
そうすると、また色々と入ってくるスペースができる。

「それは知っている」と思うことは、学びを阻む。
普段の会話でも、話を聞かないことになる。
例えば夫婦の会話は、成り立ちにくいという。
お互いが「知っている」という勘違いによるものが大きいのかもしれない。

戦後「従う」ということが、激しく叩かれる時代が続いた。
軍国主義への反動である。
同時にアメリカの「個人主義」が良いものとされてきた。
(これも、自由の本家アメリカからすれば、ひどい曲解・誤解である。)
即ち「自分を無にする」ということが、「隷属」と同類に扱われてきた。

そうではない。
進んで従う、というのは、相手への尊敬から発する行為である。
「自分を無にする」とは、すべてから学ぼうという謙虚な姿勢の現れである。
これらは、非常に価値のあることであり、学びの姿勢として主体的である。

進んで従いたい相手がいるか。
いるとしたら、それは素晴らしく幸せなことである。
自分を無にして、万物から学びたいと思えるか。
だとすれば、学びの要素は、身の回りに溢れている。

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