素麺塾での学びの続き。
朝早く来て、畳を敷いて拭いたり、道の落ち葉を掃いたりする。
気分は、お寺の小僧である。(実際、観音堂という場所である。)
木漏れ日の中、汗を少しかきながら掃除をすると、清々しい気分になった。
準備の段階で、休憩が入った。
麦茶とスイカをいただきながら、直接野口先生のお話を聞けた。
野口先生が「従う清々しさ」ということをお話されていた。
学ぶ姿勢にしても「自分を無にせよ」とのこと。
ここが、すとんと落ちた。
この日、寺の小僧のような仕事をさせてもらったのは、進んで来ているからである。
従いたくて従ったのである。
完全なる自分の自由意思である。
「道の落ち葉掃きとか地味だし暑いから嫌」とかは全くない。
道を掃いていると、気持ちが「無」になっていく感覚がある。
そうすると、また色々と入ってくるスペースができる。
「それは知っている」と思うことは、学びを阻む。
普段の会話でも、話を聞かないことになる。
例えば夫婦の会話は、成り立ちにくいという。
お互いが「知っている」という勘違いによるものが大きいのかもしれない。
戦後「従う」ということが、激しく叩かれる時代が続いた。
軍国主義への反動である。
同時にアメリカの「個人主義」が良いものとされてきた。
(これも、自由の本家アメリカからすれば、ひどい曲解・誤解である。)
即ち「自分を無にする」ということが、「隷属」と同類に扱われてきた。
そうではない。
進んで従う、というのは、相手への尊敬から発する行為である。
「自分を無にする」とは、すべてから学ぼうという謙虚な姿勢の現れである。
これらは、非常に価値のあることであり、学びの姿勢として主体的である。
進んで従いたい相手がいるか。
いるとしたら、それは素晴らしく幸せなことである。
自分を無にして、万物から学びたいと思えるか。
だとすれば、学びの要素は、身の回りに溢れている。
2018年9月30日日曜日
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