教育実習を通しての学びのシェア。
教育実習生はまだ学生だからといって、侮れない。
子どもが教師より優れている面が多々あるのと同様、教育実習生の方が優れている面もたくさんある。
例えば、体力。
多くの場合、ここはまず勝てまい。
若さに至っては、もはや「設定」の違いである。
例えば、字。
これはもう、完敗である。
ただでさえ勝てないのに、中にものすごいきれいな字を書く実習生がいる。
黒板の字が、芸術的ですらある。
完全に「参りました」という感じである。
ただ、当たり前だが、これは授業が優れているということとは、別の話である。
黒板の字がきれいなのである。
美しい文字の書き方はこの学生に教えられないが、他の面はたくさん教えることができる。
ここまでは、普通に考えるところである。
問題は、ついここを裏返しに考えてしまうことである。
「字はきれいだけど、授業はね。」というのは、オヤジな考え方である。
私は、字が下手だ。
でも、授業はできる。
だから、大丈夫。
この論理は、「論点のすり替え」というものである。
詐欺師の手法である。
「字が下手」と「大丈夫」には、論理的つながりはない。
「字が下手」と「授業に支障がある」は、論理的つながりがある。
字が下手だと、授業にマイナスの効果が働きやすい。
字がきれいな方が、いいに決まっているのである。
一方で「字がきれい」と「授業が上手い」も、論理的つながりはない。
「字がきれい」に「授業にプラスの影響がある」は、論理的つながりがある。
字がきれいな方が、見やすいし、見ていて気持ちがいいからである。
だから、教師にとって、字がきれいに越したことはない。
残念ながら、その点においては、どんなに論理を展開しても完敗である。
もしできないことの正当化をしだしたら、罪悪感をもっている証拠。
「字がきれいでも授業は別だからね」
と考え出したら、かなりコンプレックスを抱えている。
私はついそういう考えが頭をよぎってしまったので、自分自身に残念な思いがした。
しかし、このコンプレックスを抱えながら生きていくしかないのである。
(開き直ってないで改善する努力をしろという声が聞こえるが、本人としては百も承知である。)
私は字が下手だから、せめて少しでも内容的にましな授業をしよう。
そう思わされる、芸術的に字の上手い実習生からの学びだった。
2017年10月30日月曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
0 件のコメント:
コメントを投稿