木更津技法研での,野口芳宏先生からの学びのシェア。
サークルメンバーが、それぞれ国語の模擬授業を行った。
野口先生が全員の授業に対し、厳しく指摘した点がある。
それが、否定を恐れているという点。
子どもの意見を大切にしているのかもしれないが、否定がない。
「どれもいいね」で学力がつくなら授業は必要ないということである。
次のようにたとえられた。
音楽の授業で楽器を演奏している。
その時、子どもが間違えているとする。
「そこが違う」と指導者が指摘して教えてあげるはずである。
体育でも同様。
できていない時「それじゃだめだ」と教えてあげるのが指導である。
鉄棒やハードル走などでは特に大切で、誤ったやり方を続ければ、大けがにつながる。
算数ではどうか。
このブログ上でも何度も出しているたとえだが、
九九で「7×3=27」(しちさんにじゅしち)
と子どもが言ったとする。
「21に音も似てるし、いいね」と言って流していたら、大問題である。
きちんと「7×3=21」と正しい言い方に直すよう指導する。
どの教科でも、きちんと否定している。
否定によって、良い方向に子どもが変容している。
否定の生産性である。
さて、これが国語だとどうか。
「それもいいね」「これもいいね」になってしまっていないか。
誤読を誤読と気付けるのは、指摘があってこそである。
否定を恐れて子どもが良くなる機会を奪ってしまっていては、本末転倒である。
生活指導にもいえる。
集団生活において、子どもに正しくない行為がみられる。
人に迷惑をかけるような行為は慎むべきことである。
個人の自由はお互いに他人の権利を侵害しない範囲で尊重される。
自分がやりたいことより、他者の権利、とりあわけ安全・安心を守ることは最優先される。
原則的なルールを教える必要がある。
否定すべきでないところまで否定するのが問題なのである。
例えば宗教の場合がわかりやすいが、お互いの考え方の違いまで否定するのは、それ自体が間違いである。
一方で、最適な解がきちんとあるものなど、否定すべきところはきちんと否定するのが、教育である。
人は人によって人となる。
カントの有名な言葉である。
単に種としてのヒトが、他人(教育)によって、人間となる。
自然のままに放置しておかないのが教育である。
適切な手入れをした上で、本人のもつ自ら伸びる力を信じるのが教育である。
否定の生産性。
何でもありの風潮にある時代こそ、心に留めておきたい言葉である。
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