「甘えさせる」と「甘やかす」の違いについて以前書いた。
ごく単純化して言うと、
「甘えさせる」は子どもの成長を促し、
「甘やかす」は子どもの成長を阻害する。
具体的にどういう行為がそれぞれに当てはまるのか。
線引きが難しいとはよく言われるが、一つ指標になる見分け方がある。
それは、「自力でできることか」という一点。
例えば小学一年生の子どもに「食事を作る」ということは負担が大きい。
よって、一般に親が子どもに食事を作ってあげることは「甘やかす」ことにはならない。
しかし「箸を並べる」ぐらいは子どもだってできる。
もっと「水やお茶を用意する」ぐらいもできるかもしれない。
それら普通にできることを全てやってあげ続けると「甘やかす」につながってくる可能性が出る。
無論、小学一年生の子どもに食事を作らせることも、できなくはない。
時にやらせてもいいし、場合によっては毎朝準備することもあり得る。
それは家庭の事情や教育方針によるものであり、一概にいえない点でもある。
全部やってあげるにしてもやらせるにしても、そこに意図があればよい。
無意図にやってあげ続けているなら、見直すべき点があるということである。
ちなみにこの見分け方は万能ではなく、「できるけれども手伝ってあげた方がよい」という場合もある。
しかし、一つの指標にはなる。
以前「我が子を抱きしめる」ということは大事な「甘えさせる」行為であるということを書いた。
http://president.jp/articles/-/16508?page=3
(「プレジデントオンライン」記事)
「抱きしめる」という行為は、どうがんばっても子どもが自分でできないのである。
「話を聞いてあげる」「一緒に遊ぶ」も同様である。
親ならではのことは勿論、担任ならではのできることもある。
この考え方は、学級経営にも応用できる。
それは、子どもにとって自力でできることかどうか。
できることに無用な手出しをしていないか。
逆に、自力ではできないことを、放置していないか。
よりうまくできるように導けるチャンスと見た時、手出しをすべきか控えるべきか。
(夏休みの自由研究・工作などは、ここが悩みどころである。)
選択の連続である子育て、そして学級経営において、一つ指標となる考え方になるのではないかと思い、提案してみた。
2016年5月16日月曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿