2016年5月5日木曜日

どうせ比較するなら、過去の自分

子どもを比較してはいけない。
唯一無二の存在である。
上下も左右もあったものではない。
簡単に比較による評価はできない。

基本的に、教育に比較は必要ないと考えている。
必要になるのは、子どもの側ではなく、大人の側である。
例えば、試験の選抜の際の点数などである。
例えば、ある指導が効果があるかどうかを測る時などである。
大人の都合である。

ところで、自分自身にも、基本的に比較は必要ない。
ただ、全く役に立たないという訳でもない。

次の本を読んだ。
『嫌いな自分は、捨てなくていい。』中谷彰宏著 学研
http://www.amazon.co.jp/dp/4054064221

この本に書かれていることの中に「人間は、比較したがる。」ということがある。
比較するのも、近くの人だけである。
ウォーレン・バフェットと年収を比較する人はいない。
同僚・同期の給料が1万円でも多いことに腹を立てるという。

これは、年収以外のことにも当てはまる。
例えば、目立つ実践をする同期の仲間がいる。
気になる。

身近なところだと、地元に、優秀な同期の仲間がいる。
「同期の〇〇先生はすごいですね。」という話を聞く。
私も、その仲間をすごいと思っている。
すると、気持ちが焦る。
「自分もあの人みたいに・・・」の考えが頭をよぎる。

ここがダメポイントである。
確かに、近くの人から見れば、差が見える。
しかし、もう少し遠くから見ると、差は見えない。

例えば、整列時に、いつも自分の前にいる〇〇君と自分のどちらが背が高いかは、子どもにとっては大事なことである。
大人から見れば、その微妙な差なぞどうでもいい。
まさに「どんぐりの背比べ」。
しかし、本人たちは、結構必死である。
微妙な場合は「どっちが高い!?」と何度も聞かれること必至である。

これと同じである。
大きな視点、世間一般から見れば、同じぐらいのものはすべて「ほぼ同じ。」である。

要は、視点を大きく持つこと。
そして、どうせ比較するなら、近くの人ではなく、憧れる人。

私なら、師の野口芳宏先生を考えれば、自分の無知は恥ずかしくもない。
比較対象としては、あまりにも歴然たる差がありすぎるので、対象外である。
平均年齢60歳越えの俳句の会で、何を言っても恥ずかしくないのと同じである。
そして、「追いつく」という考えすらも起きない。
今の自分を認めつつ、別物である「未見の我」を目指す以外にない。
だからこそ、学べる点がたくさんある。

私より少し年上の、尊敬する先生が、ずっと前に次のようなことを諭してくれたことがある。
「ランキングなんて、意味がない。
俺は、松尾さんがやってる学習会も、他の学習会も知らない。
本だって、どれが売れてるかも知らない。
そういう狭いことは、どうでもいいんじゃない。」

自信を持って、自分は自分でやっていきたい。

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