国語で視点を教える。
話者は誰か。
どこから見ているか。
ここを指導することで、詩や物語の情景が鮮やかになることがある。
これを、日常に応用する。
普段の視点は、自分の中にある。
当たり前である。
これを、相手の視点、外の視点で見ることが、「思いやる」につながる。
これは、詩や物語の時ほど、簡単にはできない。
良かれと思って言ったりやったりすることも、相手の視点からすると迷惑なことがある。
特に大人と子ども問わず、批判的だったり言葉がきつかったりする人は、このあたりの視点が抜け落ちている可能性が高い。
自信があって思い込みが強いほど、強い言葉になって外に出る。
子どもに限らず、指導者の側こそ気にすべき視点である。
教えたつもりになっていることがかなりある。
相手にとって言葉がきつすぎることがかなりある。
有り難迷惑なこともかなりある。
電車の中で、「子どもは公共の場で騒いでうるさい」という話をしている大人がいた。
大声で話していた。
視点が、自分の中にあることがよくわかる。
客観的には見えない。
「廊下を走ってはいけない」というのは、どの先生も常に指導していること。
しかし、「先生も廊下走ってたね」と子どもは口に出さなくても思っている。
客観的に見るのは難しいと自覚する。
自分も人のことは言えないと自覚することが、視点を外に持つための第一歩であるかもしれない。
2015年8月15日土曜日
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