実習を通しての気付き。
担任がいない時に掃除をさぼる子どもにどう指導するかという質問を受ける。
結論から言うと、「先生が見ているからやる」から入ればよい。
一般に、これはよくないとされる。
もう9月の段階なのだから、自主的に掃除をすべき。
学級経営が上手な先生方にお叱りを受けそうである。
しかしながら、自分としては、これは子どもとして割と本音の姿ではないかとも思っている。
自分の子ども時代を振り返ると、別に悪意がある訳でもない。
ただ、何となくさぼるのである。
目的がわかっていても価値がわかっていても、やはり本音は「めんどい」のである。
しかし、この「自然」な状態は、「教育」の場において都合がよろしくない。
そもそも掃除自体が、教育の場として設定されている。
掃除をしないと、汚いまま使うはめになり、不快である。
掃除屋さんを頼んでいない以上、必然的に担任か子どもがやるしかない。
そこで取り組ませ方は「先生が見ているからやる」から始める。
交通ルールと同じで、自分で気付く以前に言われるから守るのである。
そこに「やりたい・やりたくない」は関係ない。
必然性によりやらざるを得ないのである。
長くなったので次号に続く。
2016年11月8日火曜日
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