子どもによく言う言葉がある。
「ルールは、作ってなくしていこう。」
どういうことか。
ルールというのは、快適に生きるためにある。
例えば、信号機。
先日の台風で信号機が止まった時に思ったことで書いたが、信号ルールは大変有益である。
特に、交通量の多い場所では重宝する。
一方で、「ここの信号機は要らないのでは」と思う場所もある。
なぜなのか。
これは、実は子どもや高齢者の事情に関係する。
小学校の通学路は、信号機が多い。
これは、子どもの命を守る上で、有益だからである。
小さな子どもは、普通の横断歩道だと「行ける」「行けない」の判断を誤りやすい。
大抵のことは「トライ&エラー」でいいのだが、命に係わることは例外である。
(例えばパイロットの仕事が9割の成功率では困る。)
交通ルールについては、可能な限り100%に近い成功率が欲しい。
だから、小学校の通学路には、あまり交通量が多くないところにも、信号機がつく。
一方で、廃校になったところやかつての栄えた跡地などにも、信号がそのまま残っている場合もある。
それは、再検討の対象である。
「かつて必要だった」という類のものである。
ルールというのは、そういう面もある。
かつて必要だったが、今は必要ないものがかなりある。
それは、時代の変遷という場合もあるし、人々の意識の変化という面もある。
学校文化としては、様々なルールがある。
このメルマガでもしばしば取り上げる、中学校のソックス規定等の「謎ルール」は、かつて必要なものだったのである。
実際、世の中が滅茶苦茶で、中学も荒れに荒れていた時代があったのである。
しかし、今は必要ないのではないか。
学校文化にも、そういうものがかなりある。
いや、教師の文化にもかなりあるかもしれない。
一つ例を挙げると、教師以外の人には聞き慣れない用語だと思うが、「指導案検討」というものがある。
ざっくりいうと、どんな授業をするかという計画書の検討である。
これ自体に意味はあり、自分の授業について文書化することで自覚できるという意味がある。
(一つの授業なのに何十ページという、絶対に読ませない手段をとる指導案もあるが、見開き2ページもあれば十分である。)
問題は、「指導案検討」によって、これを「エラい」「ベテラン」の人たちがあれこれ言って、変えてしまうことである。
本人がやりたいことと180度変わってしまい、よく「目も当てられない授業」になる。
だったら、止めてしまえばいいのである。
あれこれ検討とかしないで、とりあえずやらせてみればいい。
さっきも述べたが、命(あるいは人権)に関わらないことなら、トライ&エラーでいいのである。
授業が失敗しても、子どもはへっちゃらである。
(「成功」しても、残念ながら意外と子どもには影響がないかもしれない。)
ルールを見直す。
そのためには、いつ、どういう経緯でできたルールなのかを探ることである。
(逆に、その作業を吹っ飛ばすと、必要なルールをなくしてしまう失敗になる。)
ルールは、変えられるし、なくすこともできる。
ルールは常に相対的に存在し、絶対はない。
大人が実践し、子どもにも教えたいことである。
2019年12月4日水曜日
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