2019年10月28日月曜日

授業は知識の血肉化を

教育実習で話したことのシェア。

かけ算九九。
幼稚園からそらんじて言える子どもがいる。
しかし、「言える」ということと「わかっている」ということは全くの別物である。
教える側は、ここを勘違いしてはならない。

例えば、古来からの有効な教育法に、論語の素読がある。
これは、教育的に大変意味があると言われる。
しかし「論語読みの論語知らず」という諺の示す通り、論語をそらんじていても、わかっている訳ではない。

暗記には意味がある。
覚えるという点においてである。
しかし、それによって安心してこれを軽視したり学ぶ意欲を失ったりしてしまったら、これはマイナスである。
大人でも見受けられるが、「そんなの知ってるよ」の態度である。
この態度は、生涯に渡って学びを阻害する。

かけ算九九の話に戻るが、「九九を言える」というだけの状態は、空っぽの容器のようなものである。
中身を入れるための受け皿ができている状態である。
外形はあるが、中身がない。

そこに授業で、中身を満たすような、意味付けをしていく。
「2×7とはいかなることか」ということを、深く突き詰めていく。
「2を7回足すのとはどう違うか」
「7×2ではだめなのか」
「身の回りの2×7はどこにあるのか」
「2というかたまりにはどういうものが当てはまるのか」
「2×10、2×11はどうなるのか」
と考えていく。

そうすることで、就学前に意味もわからず覚えた九九に、血が通う。
単なる知識が「生きる」ようになり、使えるようになる。

これは言うなれば、雪を見たことのない南国の子どもが、「雪の冷たさ」をわかるのと同じ感覚である。
辞書で「雪」と「冷たい」を引けば、意味的にはどういうことか知る。
しかしそれは、わかっている訳ではない。
雪に触って初めてわかる感覚である。

例えば、「孤独」とはどういう状況かがわかるということである。
「孤独」という言葉の指す感覚は様々であることも、体験するほど豊かに知ることになる。
教室で一人ぽっちの「孤独」。
みんなと一緒にいるのに感じる「孤独」。
一人暮らしの高齢者のように、誰かを失って初めて感じる「孤独」もある。

「孤独」ということが、周りに誰か人がいることが条件であることもやがて知る。
誰もいない大自然の中では、逆に孤独は感じられない。
だからこそ、大都会は孤独を感じやすい。
人生の経験値で「孤独」という単語の指すものへの理解の深さが全く異なる。

「わかる」とは奥が深いものである。
逆に「どうでもいいことを延々とやる」と児童・生徒に受け取られるような授業であれば、それはその通りなのである。
教える側の理解が浅いから、伝える内容も浅いということである。
「わかっているつもり」が一番怖く、同時に、教える時は常にそうである。

授業は、教える側にとっても、自己との対話である。
血の通った授業になっているか。
経験が長くなるほど、常に自問すべきことである。

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