2019年10月20日日曜日

教育に競争を持ち込まない

学校教育における「競争」について。

先に結論を述べる。
学校教育に競争を持ち込むと、ろくなことにならない。
メリットより害悪の方がはるかに多い。
なぜなら、競争は協働の力を削ぐからである。

ちなみに、教員評価制度もこれである。
一緒に働く仲間同士に誰かの視点で優劣をつけられると、うまく協働できなくなる。
損得勘定で働くことになり、結果的に評価につながらない損な役回りは誰もしなくなり、学校は荒れる。
要は、教育現場なのにアメとムチで人を動かそうということであり、退廃はわかりきったことである。
(「目立つ」子どもをよくほめる、叱る教師の学級が荒れるのと同じ原理である。)

競争は「相手より優位に、上に立つ」ことを目標とする。
1位が一番良いし、人より先んじることが善である。
最下位が最も劣る評定で、人と比べて遅れることが、そのままマイナス評価になる。

ここまで書いていることだけでも、教育の現場に全く馴染まないのがよくわかる。

ちなみに競争の象徴であるかのような部活動指導も、優れた指導者は競争原理ではなく、協働の原理を上手に使って導いている。
だから、チームの雰囲気が、誰に対しても本当にいいのである。
ただ強さだけを求めるチームは、差別やいじめがあるなどして、チーム内がぎすぎすしているはずである。
(競争は、ランキングというその性質上、必ず差別化を含む。)

健全な競争は、企業間にとっては有効に働く。
企業間競争が、顧客にとってのサービス向上にもつながるのも事実である。
(ただしこれが値下げ競争の形をとると、サービスの質の低下にもつながる。)
しかし、市場原理の多くは、教育には馴染まない。

なぜなら、学校にとっての顧客とは、子ども全員、一人一人だからである。
A君が1位でZ君が最下位、というような見方では、全員を「良く」したことにならない。
教育は「常時善導」であるべきで、自尊感情を損なうことは「悪導」(注:松尾造語)であり、マイナスである。

これは、例えば「叱ってはならない」ということではない。
叱ることによって善導もできるし、「悪導」にもなる。
ほめることも同様である。

この叱る・ほめるを、競争として使わないというのは、重要にして最もできていない部分である。
何かが人よりできたからほめる。
勝ったからほめる。
成功したからほめる。
何かが人よりできないから叱る。
失敗したから叱る。
負けたから、叱る。
結果を、他人と比べる。
全て、激しくマイナスである。
(だから、通知表を互いに見せるような行為は、厳に慎むべきこととして教える。ここは親同士も同様である。兄弟間も×である。)

特に、世間の一部で「ほめる」を手放しにプラスに捉える傾向があるので、要注意である。
以前も書いたが「100点をほめる」と、子どもはどんどん追い詰められる。
(参考:プレジデントオンライン記事「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる)
https://president.jp/articles/-/22234

叱るのは、人の道として誤っていると思うから叱るのである。
(怒るのは、感情的に気に入らないから怒るのである。人間同士の教育だから、それもある。)
ほめるのは、(上の立場から)相手の努力といった人間性に対して心からの賞賛、拍手を送りたいから、ほめるのである。
単なる結果でしかない点数をほめるのとは、全く違う。

勉強とは、競争ではない。
勉強とは、たゆまぬ自己研鑽である。
受験はどうだというかもしれないが、あれも根本は自分とのたたかいである。
結果はすべて自分を高めた結果であり、周りとの比較など本来関係ないはずである。
(とる側が合格して欲しいと思うような人間は、誰と比較しなくてもわかる。)

同じ方向を見つめる仲間と、競争ではなく協働して「切磋琢磨」すればいいのである。
「受験競争」でマウンティングしたり、相手を貶めたりする必要はない。

学級での些細な言動、あるいは授業の中で、ちょっとした競争をさせてしまっていないか。
それによって、ぎすぎすした人間関係を築く「悪導」をしてしまっていることを見過ごしていないか。

学級で協働がうまくいかない根本的な原因を、そういった行為が作っている可能性がある。
特に、親や教師といった大人が、他者より優れたい、自分だけが得したい、という思いがあると、それは子どもに移る。
教育において、競争原理の扱いについては、十分注意したい。

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