教育実習でした話。
「子どもと一緒に汗をかいた量だけ、成長できる」ということを伝えた。
なぜこれを伝えたかというと、実習生の姿が実に爽やかだったからである。
まだ残暑と呼ぶにも厳しすぎる暑さの中、子どもと外で毎日全力で遊んでいる実習生。
笑顔で滝のような汗をかいている姿を見て、感動した次第である。
私はあまりに暑いので、教室内で〇つけ等をしながら悠々と過ごしていた。
そこでその姿を見て、恥じ入った訳である。
一念発起して、外に出て、やはり暑いので木陰で過ごした。
やや敗北感のある結果ではあるが、教育実習生に教えてもらった思いである。
実際、授業の成否を分けるのは、子どもとの人間関係次第である。
「授業の達人」みたいな人でない限り、人間関係のできていないところで良い授業をするというのは、かなり難しい。
授業技量が低くても、子どもとの人間関係を上手に作ってきた実習生は、子どもが何とか授業を成立させる。
そういうものである。
そういった経験を、初任者からも何度も何度も経て、段々に成長させてもらう。
子どもと一緒に汗をかけば、それだけ成長できるということである。
授業の準備を一生懸命する、ということができるのも、子どもと一緒に成長したいという思いがあるからこそである。
その思いを強くするのは、何となく「全体に教える」というものではなく、具体的なクラスの「〇〇さんの喜ぶ顔」である。
よく教育書や家庭教育本であるような「こうすれば子どもはこう動く」というのは、理論上の話である。
実際の生身の人間はそうはいかない。
それは、子どもと一緒に汗をかいた人だけが知っている。
掃除一つをとっても、自分は楽な作業をして、子どもに「がんばれ」で響く訳がない。
(「監視」してるだけというのは、最悪の形である。)
上から目線で子どもを見ている時と、自分が床に手をついて雑巾がけをしている時に見えるものは全く違う。
歌でも同様。
自分が一緒に楽しそうに歌わないで、子どもが歌わないのを「やる気がない」などといっている姿は、滑稽である。
子どもと一緒に汗をかいた分だけ、成長できるのである。
また、これは今回は話さなかったが、子どもといない時の涙も成長の一つである。
「悔しい思い」は成長の糧になる。
「あんなに準備をがんばった」のに、ひどい授業になってしまうこともある。
子どもや保護者、同僚との関わりで「あんなに一生懸命やった」のに、裏目に出てしまうこともある。
しかし、がんばった分だけ、気付きは確実に生まれる。
適当にやってうまくいったことに、気付きはないのである。
苦しみの経験は、確実に次の感動の経験へと積み上がる。
ぼーっと幸せに生きていると、そこには目が向かない。
苦しむこと、涙を流すことにも、大きな意味がある。
涙は未来への投資である。
今にとっては痛い支払いだが、未来にとっては大きな価値がある。
教育実習生から、初心を教えてもらった。
若者に負けないよう、自分自身も磨いていきたい。
2019年10月8日火曜日
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